第15話 V-17
マリウス・ヴェルンは、逃げなかった。
王室監察院の別館。王都北西、白冠宮から少し離れた官庁街の外れにある、古い石造りの建物だった。夜半を過ぎている。正面の灯りはほとんど落ちていたが、二階の一室だけがまだ明るい。エレノアは向かいの屋根から、その窓を見ていた。第二陣から奪った命令書には、報告先として一人の名があった。
『王室監察院長 マリウス・ヴェルン』
調べるのに一日もかからなかった。四十五歳。王室監察院の長。大貴族、私兵、外国工作、王都の異常案件を扱う男。そして今、自分を探した監察官を送り、その一人が消えた後には騎士付きの第二陣を出した人物だった。
「あなたが、一番上なのね」
エレノアは屋根から降りた。
◇
裏口には衛兵が二人いた。殺さなかった。一人が廊下の奥へ顔を向けた瞬間に首の横へ指を入れ、意識を落とす。もう一人は剣を抜く前に手首を押さえ、壁へ倒した。二人とも呼吸している。ここへ来た目的は、殺すことではない。マリウスが何を知っているのか、それを聞くことだ。
階段を上る。二階。突き当たりの部屋。扉の向こうから、紙をめくる音がした。エレノアは一度だけ扉を叩いた。
「どうぞ」
返事があった。鍵はかかっていない。扉を開ける。
部屋の中央に、大きな机があった。書類が積み上がっている。壁には王都と地方の地図。人物名と日付を書いた小さな紙片が、何十枚も糸で結ばれていた。その前に、一人の男が座っている。四十五歳。黒に近い焦茶の髪には、こめかみに白いものが混じっている。細身で、騎士のような体格ではない。目だけが、こちらをまっすぐ見ていた。
「こんばんは」
エレノアが言った。
「......エレノア・ヴァルモント」
男は立ち上がらなかった。
「驚かないのですね」
「驚いている」
「そうは見えません」
「観測できる反応が小さいだけだ」
変わった言い方だった。男の右手の指先が、机を三度叩く。
「マリウス・ヴェルンさん?」
「そうだ」
「私を探していましたね」
「今は、そうだ」
「今は?」
マリウスはエレノアの視線を見た。次に腰の小刀。それから扉。
「先に確認したい」
「何でしょう」
「第一監察官を殺したのは、あなたか」
「はい」
「第二調査隊五名も?」
「はい」
マリウスの指が止まった。
「理由は」
「私を探していたからです」
「それだけか」
「私を王都へ連れていこうとしました」
「事情聴取のためだ」
「そう言っていました」
「嘘ではない」
エレノアは黙った。マリウスは目を逸らさない。
「私が命じた」
「やはり」
「《灰鴉》の壊滅と、そこに関与した第三者を調べろと命じた。あなたを殺せとは命じていない」
「皆さん、同じことを言いますね」
「同じ命令を受けていたからだ」
マリウスは椅子から立ち上がった。ゆっくりと。
「その二つを混同しているなら、まずそこから訂正する必要がある」
「訂正?」
「《灰鴉》壊滅の調査と、あなたの追放後の暗殺は別系統だ」
エレノアの表情が変わった。
「暗殺を知っているのですね」
「知っている」
「誰が命じました?」
「その質問には答える」
マリウスは机の横へ回った。
「ただし、あなたも一つ理解しろ。私はその暗殺に反対した」
「......反対?」
「証明できない危険を理由に人を殺すべきではない、と意見を出した」
「私が危険だと?」
「違う」
即答だった。
「そこを間違えるな」
マリウスは机の引き出しへ手を伸ばした。エレノアの手が小刀へ触れる。
「ゆっくりお願いします」
「分かっている」
取り出したのは、薄い灰色の綴じ冊子だった。表紙に番号だけがある。
『V-17』
マリウスはそれを机へ置いた。
「これが、追放前まで王室監察院があなたについて持っていたものだ」
◇
最初のページは、九年前の日付だった。王暦四百九年。黒樹の森。エレノアは紙をめくる手を止めた。
「なぜ、これを」
「公式報告に齟齬があった」
マリウスが答える。
「負傷した護衛騎士が治療を受けた時刻。夏館から森までの移動時間。報告書を書き直した痕跡。討伐者とされた護衛の武器損傷」
エレノアはページを読む。そこに、自分が黒牙獣を殺したとは書かれていない。
『報告内容に隠蔽の可能性あり』
『現場証言、後日変更』
『当主アルマン・ヴァルモントによる情報統制の疑い』
そして。
『実際の討伐経緯 不明』
「不明?」
「不明だ」
「私だとは思わなかったのですか」
「可能性の一つには置いた」
マリウスは指先で机を一度叩いた。
「だが証拠がなかった」
「それだけ?」
「それだけだ」
エレノアは次のページをめくった。自分の名がある。しかし。
『現場関与を示す直接証拠なし』
『戦闘能力について評価不能』
『当時10歳』
「評価不能」
「見ていないものを評価することはできない」
「王妃陛下は、この資料を知っていたのですね」
「知っていた」
「では、私のことを」
「違う」
また遮られた。
「王妃が知っていたのは、ヴァルモント家が何かを隠した可能性だ」
エレノアはマリウスを見る。
「本当に?」
「観測できる範囲では、それ以上の情報を王妃が得た形跡はない」
断定しない。必ず、少しだけ余白を残す。
「では、なぜ私は排除されたのです」
「政治だ」
マリウスは言った。
「あなたの母は先王の娘。あなた自身が王家の血を持つ。ヴァルモント家は東部国境軍を実質的に動かせる。地方の騎士、代官、軍務官、商人の一部は王都より伯爵家の指示を優先する」
「父は国境を守っていただけです」
「それも事実だ」
「では」
「事実と恐怖は両立する」
マリウスは静かに言った。
「王太子との婚姻まで成立すれば、王家の血と東部軍とヴァルモントの実務網が宮中へ直結する。陛下と王妃は、それを危険と見た」
「反乱など考えていません」
「それも、私は報告した」
「......何ですって?」
「少なくとも監察院が確認できた範囲では、反乱準備を示す確証はない、と」
エレノアはV-17から顔を上げた。
「それでも、あの裁判を止めなかった」
「止められなかった」
「同じでは?」
「結果だけ見ればな」
マリウスの声は変わらなかった。言い訳をするようにも聞こえない。
「だから、私は責任がないとは言わない」
その一言で、エレノアは少しだけ黙った。
◇
「暗殺について教えてください」
エレノアが言った。
「誰が決めたのですか」
マリウスはしばらく考えた。
「私が確認した範囲では、追放後の殺害案を実務へ落としたのは宰相府だ」
「グレゴール・ヴァルゼン」
「そうだ」
「国王は?」
「最終的な処分方針を承認している」
「王妃は?」
「伯爵家排除と婚約解消には深く関与している。追放後殺害についてどの段階まで具体的に了承していたかは、私の手元の記録だけでは断定できない」
「レオニス殿下は」
「私は、彼が暗殺命令書へ署名した記録を見ていない」
エレノアは小さく息を吐いた。
「また、不明なのですね」
「分からないものを、分かったことにはできない」
マリウスはV-17を指した。
「それが、この記録を作った理由でもある」
「これは私を調べた資料でしょう」
「違う」
「違う?」
「正確には、黒樹の森で何が起きたかを調べた記録だ」
マリウスは表紙の番号を見る。
「《V-17》は能力分析書ではない。危険人物指定でもない」
「では何なのです?」
「分からないことを、分からないまま残した記録だ」
エレノアは返事をしなかった。九年前、父は隠した。監察院は疑った。王妃は、その疑いを政治的不信へ使った。けれど――この男は最後まで、自分が黒牙獣を殺したとは書かなかった。
「あなたは、私を殺すべきだと思わなかったのですね」
「追放前は、そうだ」
「今は?」
マリウスが初めて、わずかに目を細めた。
「今は、監察官二名と騎士四名の死について、あなたを極めて危険な存在だと評価している」
エレノアは少し考えた。
「六名?」
「第一監察官一名。第二陣の監察官一名と騎士四名」
「そうでしたね」
「数えないのか」
「必要な時は数えます」
「......そうか」
マリウスの指が、また三度机を叩いた。
「だが、それは追放前から知っていたという意味ではない」
「今、初めて知った?」
「正確には、《灰鴉》壊滅現場と部下の死から、過去の記録を再評価し始めた」
「そうですか」
エレノアはV-17を閉じた。
「では、リシェルのことを聞きます」
マリウスの視線が少し動いた。
「妹君の火災か」
「誰が殺しました?」
「観測できる範囲では、その命令を見ていない」
「王宮ではない?」
「そこまでは言っていない」
「では」
「王宮が殺した証拠を、私は持っていない」
エレノアの目が冷えた。
「庇っています?」
「庇うなら、あなたの暗殺計画まで話さない」
正しい。その一点だけは、否定できなかった。マリウスは続ける。
「妹君について、私が確認したのは火災後の死亡報告だけだ。焼損が強く、身元確認は装身具と使用人証言に依存している」
「それを疑わなかったのですか」
「当時は疑う理由がなかった」
「私の家が処分されている最中なのに?」
「だからこそ、王宮による殺害と決めつける理由にもならない」
エレノアは黙った。この男は、本当に何でも留保する。それが苛立たしい。同時に――今まで会った王宮側の誰よりも、嘘をついているようには見えなかった。
◇
「《白鞘処分》」
マリウスが言った。エレノアが顔を上げる。
「何です?」
「宰相府の内部呼称だ」
机の下段から、今度は赤い紐で綴じられた薄い写しを出す。
「私が暗殺案へ反対した時に作った異議書の控えだ」
エレノアは受け取った。上部に記された文字。
『白鞘処分に関する監察院意見』
その下。
『対象家門の政治的封じ込めは必要と認める』
『ただし、追放宣告後の西方移送中に行う非公開殺害については法的根拠および必要性を欠く』
『対象本人の個人的危険性について、監察院は拘束不能・殺害必須と判断する根拠を有しない』
エレノアは一行ずつ読んだ。最後に、提出先。
『宰相府』
「これを出したのですね」
「出した」
「却下された」
「そうだ」
「却下したのは?」
「正式な決裁原本は、私の手元にはない」
「どこにあります?」
マリウスは答える前に、エレノアの顔を見た。
「それを知って、どうする」
「読みます」
「その後は」
「書いた人に会います」
「会って?」
「質問します」
マリウスはしばらく黙った。
「答えによっては殺す、か」
「はい」
「あなたは、自分が既に誤って人を殺した可能性を考えているか」
エレノアの表情が止まった。
「......何の話です」
「私の部下だ」
「彼らは私を捕らえようとしました」
「職務として」
「王都へ連れていくために」
「暗殺するためではない」
「それは、今あなたが言っているだけです」
「命令書を見ただろう」
エレノアは答えなかった。
「あなたは疑うことと、知っていることを混ぜ始めている」
マリウスは静かに言った。
「それは、私が最も恐れている種類の誤りだ」
「私が間違っていると?」
「一部は間違っている」
即答だった。
「王宮はあなたの家を不当に潰した。あなたの暗殺も承認された。そこは事実だ」
「では」
「だからといって、王宮から来る者がすべて暗殺者になるわけではない」
部屋が静かになった。エレノアは小刀へ手を伸ばさなかった。マリウスも動かない。
「あなたを殺したくなりました」
「そうだろうな」
「怖くないのですか」
「怖い」
「そうは見えません」
「観測できる反応が小さいだけだ」
最初と同じ答えだった。エレノアは、ほんの少しだけ笑った。
「変な人ですね」
「よくは言われない」
「でしょうね」
小刀から手を離す。
「決裁原本はどこです?」
マリウスは一度だけ息を吐いた。
「宰相府の機密記録庫か、白冠宮の王令控えに残っている可能性が高い」
「可能性」
「確認していないからな」
「分かりました」
エレノアは《白鞘処分》への異議書とV-17を机に置いた。
「持っていかないのか」
「写しをください」
「用意しよう」
「それから」
「何だ」
「あなたは殺しません」
マリウスは初めて、少しだけ驚いた顔をした。
「理由を聞いても?」
「今のところ、私を殺そうとした人ではないからです」
その答えに、マリウスは何も言わなかった。指先だけが、三度、静かに机を叩いた。エレノアは窓の外を見る。次に向かう場所は決まった。宰相府。そこに、本物の《白鞘処分》がある。




