第13話 王都の命令
調査官は、王都へ戻る街道を一人で歩いていた。急いでいるようには見えない。けれど寄り道もしなかった。黒革の書類鞄を左手に持ち、日が落ちる前に次の宿場へ着ける速度を崩さず進んでいる。
エレノアは、林の中からその背中を追った。距離は十分に取っている。落ち葉を踏む音も、枝が揺れる音も、街道を行く荷車の音に紛れた。男は一度も振り返らなかった。
日が傾き、街道から人影が減った頃。エレノアは先回りした。少し先に、小川へ架かる石橋がある。橋の向こうは林が深く、近くに家はない。話をするなら、そこがよかった。
◇
調査官が橋を渡りきったところで、エレノアは木の陰から出た。
「少し、お話しできますか」
男が足を止める。驚いてはいたが、叫ばなかった。まずエレノアの顔を見て、次に腰の小刀へ視線を落とした。
「......どちら様です」
「先ほど、ヘクター・グランツさんを調べていましたね」
男の表情が変わる。
「盗み聞きですか」
「はい」
否定する必要はなかった。
「いくつか聞きたいことがあります」
「私は公務中です」
「だから聞きたいのです」
男は黙った。右手を外套の内側へ入れかける。武器ではない。紙か徽章を取ろうとしている。
「手は見えるところへお願いします」
エレノアが言うと、男は動きを止めた。
「脅しているつもりですか」
「いいえ。急に何かを出されると困るだけです」
「十分、脅しに聞こえます」
「そうですか」
エレノアは少し考えた。
「では、脅していることにしてください」
男が眉を寄せる。
「質問します。あなたは誰の命令で《灰鴉》を調べているのですか」
「王室監察院です」
「誰の命令?」
「院の通常決裁です」
「通常?」
「重大事件が起きれば調査官が派遣されます。《灰鴉》は長年、暗殺や誘拐に関与した疑いのある組織です。本拠地が一夜で壊滅した以上、調べない方がおかしい」
理屈は通っている。だからこそ、エレノアは慎重に聞いた。
「エレノア・ヴァルモントという名前は、命令書にありますか」
男の目がわずかに動いた。
「......あなたが?」
「質問に答えてください」
「ありません」
「私を探すようには?」
「命じられていません」
「私が生きているか確認しろ、とも?」
「ありません」
答えは速かった。エレノアは男の顔を見る。嘘を見抜く力はない。けれど、少なくとも怯えて話を合わせているようには見えなかった。
「では、なぜ第三者を探すのです」
「先ほど言った通りです。現場がヘクター・グランツ一人の仕事には見えないからです」
「その第三者が私なら?」
「まず事情を聞きます」
「逮捕する?」
「事件への関与次第です」
「《灰鴉》が私を殺そうとしたことは?」
男が黙った。
「知っていますか」
「知りません」
「私を殺す依頼書が、あの建物にありました」
「......本当ですか」
驚き方が自然だった。それが、エレノアには逆に不気味だった。
「依頼主は王都上層につながっています」
「証拠は」
「あります」
「見せてください」
「なぜ?」
「事実なら、監察院で調べるべきです」
「監察院で?」
「そうです」
男は真面目な顔で続けた。
「暗殺組織が王都上層とつながっていたなら、なおさらです。依頼記録を持っているなら、それを王都へ持ち帰る必要があります」
王都へ持ち帰る。エレノアの中で、その言葉だけが残った。自分を殺す依頼書。リシェルの「別途処理済み」。それを王都へ持って帰る。誰の手に渡るのか。
「監察院の誰に?」
「上司です」
「名前は」
「それをあなたに答える義務はありません」
男の声が少し硬くなった。
「あなたは、国外追放された身です。事情は知りませんが、王都へ戻ることも、国家機関の調査を妨げることも認められていない」
「私を殺そうとした人がいるのに?」
「それが事実なら、なおさら証拠を渡してください」
「渡したあと、消されない保証は?」
「ありません」
エレノアは少し驚いた。
「ないの?」
「私は保証できる立場ではありません」
男は目を逸らさなかった。
「ですが、記録に残します。私の報告書にも、受領記録にも。証拠があれば、勝手に存在しなかったことにはしにくくなる」
正しいことを言っているように聞こえた。父の時も、そうだった。記録を確認する。審理する。事実を調べる。そして、父は帰ってこなかった。
「リシェルのことは?」
突然の質問に、男が瞬きをした。
「リシェル・ヴァルモントです。私の妹」
「火災で亡くなったと記録されています」
胸の奥が一度だけ強く痛んだ。
「誰が殺したのです」
「殺害事件だとは聞いていません」
「《灰鴉》の依頼資料には『別途処理済み』とありました」
「......」
「知っていますか」
「知りません」
「監察院は?」
「少なくとも私は知りません」
エレノアは男の顔を見た。
「王宮は?」
「分かりません」
知らない。分からない。そればかりだった。けれど、この男は《灰鴉》を潰した第三者を見つけ、王都へ報告しようとしている。その報告先は王室監察院。もし本当に何も知らないのなら。ただの調査なら。なぜ、こんなにも全部が同じ方向へつながるのだろう。
◇
「報告書を見せてください」
エレノアが言った。
「できません」
「少しだけでいいのです」
「公文書です」
「では、読んでください」
「断ります」
男は黒革の鞄を持ち直した。
「これ以上は、王都で正式に――」
「王都には戻りません」
「なら、私は戻ります」
男が一歩下がる。逃げる動きではない。距離を取り、話を終えるための一歩だった。
「待ってください」
「これ以上、公務を妨害するなら衛兵へ報告します」
「その報告も王都へ?」
「当然です」
エレノアは小刀へ手を置いた。男の目がそこへ落ちる。
「抜かないでください」
「報告をやめてくだされば、抜きません」
「できません」
「私のことを書かないでください」
「できません」
「第三者はいなかった、と」
「嘘の報告はしません」
迷いのない答えだった。エレノアは、男を見た。この人は、自分を殺しに来たわけではない。今のところ武器すら持っていない。それでも、この人の報告が王都へ届けば、自分の存在が知られる。依頼主が動く。証拠が消える。次の暗殺者が来る。そうなる可能性がある。
「困りましたね」
エレノアは静かに言った。
「何がです」
「あなたは、きっと悪い人ではないのでしょうね」
男が眉を寄せた。
「ですが、帰されると困ります」
「......何を」
小刀を抜いた。男が反応する。外套の内側へ手を入れた。今度は徽章ではない。小さな警笛を掴んだ。吹かせる前に終わった。エレノアは一歩近づき、刃を一度だけ動かした。男の膝が崩れる。黒革の鞄が地面へ落ちた。
「......なぜ」
それが最後の言葉だった。エレノアは倒れた男を見下ろした。
「ごめんなさい」
本当に、そう思った。憎くはなかった。怒ってもいなかった。ただ、帰すことができなかった。
◇
黒革の鞄には、調査命令書と報告書が入っていた。エレノアは石橋のたもとに座り、一枚ずつ読んだ。
調査命令の目的。
『灰門地区における武装組織壊滅事案の事実確認』
確認事項。
『実行者ヘクター・グランツの単独実行可能性』
『第三者または別組織関与の有無』
『周辺治安への継続的脅威の有無』
エレノアの名前はなかった。暗殺依頼についても。リシェルについても。本当に、何もなかった。エレノアはしばらく紙を見つめた。
「......そう」
なら、この人は本当に知らなかったのかもしれない。そこまで考えて、エレノアは次の紙を開いた。報告書の末尾。
『ヘクター・グランツ単独によるものとは考えにくい。現場には未確認の第三者が存在した可能性が高い』
さらに、その下。
『王室監察院にて追加調査を要す』
エレノアは紙を畳み、報告書を鞄へ入れた。自分を探すつもりだったことは分かる。けれど、命令書に名前がなく、見つけた後に何をするかまでは書かれていない。この男自身が知らされていなかっただけかもしれない。今のエレノアには、その考えを否定する材料がなかった。そして、本人から答えを聞くことはもうできない。




