第12話 調査官
王都から来た男は、剣を帯びていなかった。灰色の外套。黒革の書類鞄。胸元には、小さな銀色の徽章が一つ。《灰鴉》を潰した者を探しに来た人間としては、あまりにも普通に見えた。
翌朝、エレノアは街道沿いの茶店、その二階窓から男を見下ろしていた。男は宿場へ着くと、衛兵詰所へ入り、しばらくして二人の役人と一緒に出てきた。そこから真っすぐ、《鉄狼》ヘクター・グランツが泊まっている宿へ向かう。
「やっぱり、来たのね」
市場で聞いた噂から、一日も経っていない。灰門地区の《グレイ商会》が《灰鴉》だったと知られ、その壊滅をヘクターが自分の仕事として話した。王都が動くのは早い。
エレノアは机の上に置いた紙を見た。
『リシェル・エレーヌ・ヴァルモント 別途処理済み』
その一行を見つけたばかりだった。自分の暗殺依頼は王都上層へつながる可能性が高い。そして今、その暗殺組織を潰した直後に、王都から人が来た。もちろん、それだけでは何も決まらない。暗殺組織が壊滅すれば、王国が調べに来ることくらいはあり得る。
「でも、確かめる価値はあるわ」
エレノアは外套を羽織った。
◇
ヘクターの泊まる宿は、酒場と厩舎を併設した古い建物だった。エレノアは正面から入らず、裏手の細い路地へ回る。二階の角部屋。昨夜、ヘクターが取った部屋だと聞いている。隣の建物との間隔は狭い。木箱を足場にして屋根へ上がり、雨樋を伝えば窓の近くまで行けた。窓は閉まっている。ただし、古い木枠には隙間があった。声が聞こえる。
「改めて確認します。あなたが《グレイ商会》を壊滅させた」
「そうだ」
ヘクターの声。
「一人で?」
「一人で」
「何時頃に入ったか覚えていますか」
「夜明け前だな」
屋根の陰で、エレノアは返事を一つずつ聞き取った。
「正面から?」
「......裏からだ」
「裏口の場所を、どうやって知ったのです」
沈黙があった。エレノアは屋根の陰で目を閉じた。そこは、昨夜の説明で細かく決めていなかった。
「昔、あの辺りで仕事したことがある」
ヘクターが答えた。
「何年前です?」
「忘れた」
「《グレイ商会》があの場所へ移ったのは四年前です」
「......」
「四年以内の仕事という理解でよろしいですか」
「そういうことにしとけ」
男の声は責める調子ではなかった。淡々としている。
「室内には十数名の死体がありました」
「いたな」
「武器の種類も違う。弩、短剣、剣、術具。全員、あなたが?」
「何度聞く」
「確認です」
その言葉に、エレノアはわずかに眉を動かした。王宮で何度も聞いた言葉だった。確認。父を拘束した時も。自分の外出を制限した時も。反逆の証拠を並べた時も。同じ言葉を使っていた。
「あなたを疑って逮捕するために来たわけではありません」
男が続ける。
「《灰鴉》は王都周辺で長く暗殺を請け負っていた組織です。突然本拠地ごと消えれば、誰が、なぜ、どの程度の戦力で行ったのかを確認する必要があります」
「なら俺がやったで終わりだろ」
「あなたが本当に一人でできるなら、そう記録します」
「できる」
「昔の《鉄狼》なら、私も簡単には否定できません」
ヘクターが鼻で笑った。
「今の俺じゃ無理だって?」
「そうは言っていません」
「同じだろ」
「現場を見た限り、疑問が残ると言っています」
紙をめくる音がした。
「死体の一部には、小型刃物による傷があります」
エレノアの指が止まった。
「あなたの大剣ではつきにくい傷です」
「短剣も使う」
「お持ちですか」
「捨てた」
「どこへ?」
「覚えてねえ」
「そうですか」
また紙をめくる。
「地下の罠が、ほとんど作動せず無力化されています」
「運がよかった」
「警報用の通信具だけが先に破壊されています」
「たまたまだ」
「帳簿類の一部だけがなくなっています」
今度は、ヘクターがすぐに答えなかった。
「金目の物なら持っていった」
「紙です」
「紙も金になる」
「依頼記録だけを選んで?」
沈黙。エレノアは窓の隙間を見つめた。男は思っていた以上によく現場を見ている。自分が残したもの、壊したもの、持ち出したもの――それを順番に拾っているのだ。
「ヘクター・グランツ」
男の声が少し低くなった。
「あなた以外に、あの場所へ入った者がいますね?」
ヘクターは答えなかった。
「一人ですか。複数ですか」
「いねえ」
「女性ですか」
ヘクターの椅子がわずかに軋んだ。エレノアは息を止めなかった。けれど、聞き逃さないよう意識を集中させる。
「なんで女になる」
「小型刃物の傷と、歩幅です」
「歩幅?」
「血痕の間隔が一部だけ狭い。体格の大きな男が大剣を振り回した動きとは合いません」
「ずいぶん細けえな」
「それが仕事です」
男はしばらく黙った。
「もう一度だけ聞きます。第三者がいましたか」
「いない」
「その回答で記録します」
「最初からそうしろ」
「ただし」
紙へ筆を走らせる音。
「私自身の所見としては、ヘクター・グランツ単独犯とは考えにくい。第三者の存在を疑う、と報告します」
エレノアの目が細くなった。第三者。自分を探している。
「どこへ報告する」
ヘクターが聞いた。
「王都です」
「誰に」
「王室監察院へ」
その名前を聞いた瞬間、エレノアの中でいくつかのものが重なった。王宮。監察。自分の暗殺依頼。リシェルの『別途処理済み』。そして、《灰鴉》を壊した第三者を探す男。
「なるほど」
エレノアは声に出さず、口だけを動かした。
◇
調査官が宿を出たのは、日が傾き始めた頃だった。男は一人だった。護衛も連れず、黒革の書類鞄を持って歩いていく。まず衛兵詰所へ戻り、そこで何枚かの書類を確認した。その後、宿場の郵便所へ向かう。
エレノアは遠くから見ていた。手紙を出すつもりなのだろう。王室監察院へ。第三者の存在を疑う。つまり、自分が生きている可能性を王都へ知らせる。そうなれば、次はどうなる。また暗殺者が来るのか。今度はもっと多く。あるいは父やリシェルの件に関する記録まで消されるのか。
エレノアは外套の下で小刀の柄へ触れた。まだ殺す必要はない。相手が何を知っているか聞けばいい。誰の命令で来たのか。何を調べるよう言われたのか。《灰鴉》と王宮がどうつながっているのか。答えを聞いてから決めればいい。
郵便所の前で、調査官が足を止めた。懐から封書を取り出す。エレノアは路地の影へ下がった。今ここで奪えば、人目が多い。王都へ戻るなら、必ず街道へ出る。その時でいい。
調査官は封書を窓口へ渡さなかった。何か思い直したように懐へ戻す。そして宿場の東門へ歩き始めた。
「自分で持って帰るのね」
エレノアは静かに後を追った。街道は王都へ続いている。男は一度も振り返らない。少なくとも、こちらに気づいた様子はなかった。エレノアもまだ、男が本当に何者なのか知らなかった。ただ一つ、王都へ持ち帰られる前に、聞かなければならないことがあった。




