第11話 処理済み
自分を殺す値段を、エレノアは初めて知った。高かった。
王都の西にある小さな宿の一室。夜が明けてから数時間しか経っていない。窓には古い雨戸があり、街道を行く荷車の音だけが時折聞こえてくる。机の上には、《グレイ商会》から持ち出した帳簿と依頼書が並んでいた。エレノアは一冊目の帳簿を閉じる。
「ずいぶん払ったのね」
誰に言うでもなく呟いた。金額そのものより、払い方が異様だった。最初に手付金。標的が王都を出た時点で追加。死亡確認と遺体処理の後に残額。一度に払わず、別々の名義と経路に分けている。支払人の名前はない。あるのは符号だけだった。
帳簿の余白へ、オーレンが書いたらしい短い記号が並んでいる。商会。仲介人。受取日。受け渡し場所。そこから先がない。
「依頼主は書かない、と言っていたわね」
街道での尋問を思い出す。オーレンは依頼主そのものは知らないと言った。嘘ではなかったらしい。少なくとも帳簿には、それを覆す名前がない。エレノアは次の紙を手に取った。
依頼を受ける際の確認書。対象。日時。移動予定。護衛人数。必要な後処理。自分の名前が書かれている。
『エレノア・アウレリア・ヴァルモント』
身分欄には、元伯爵令嬢。備考には、武芸の心得あり。抵抗の可能性あり。それだけだった。特別な力については、一言もない。十人を送り込んだ理由も、そこに続いていた。護送役の排除。遺体の回収。所持品の処分。襲撃を盗賊被害に見せること。失敗しないための人数だった。自分を恐れて十人を用意したわけではない。
「知らなかったのね」
エレノアは小さく呟いた。少なくとも、この依頼資料を作った者と《灰鴉》は。この書類を作った時点では、自分がどれほど人を殺せるのかを知らなかった。それは少し意外だった。九年前のことを父が隠したのは知っていた。けれど王都には、もっと多くのものが見えているのだと思っていた。実際には、見えていないこともあるらしい。そのことを覚えておこうと思った。知らない人間は、知らないまま命令を出す。それでも人は死ぬ。
◇
問題の紙は、依頼書の最後に挟まっていた。薄い補足書だった。標的本人ではなく、家族や関係者についての注意事項が並んでいる。父アルマン。拘束中。王都邸使用人。接触回避。セシル・バートン。同行なし。そして。
『リシェル・エレーヌ・ヴァルモント』
エレノアの指が止まった。名前の横に、短い文がある。
『別途処理済み』
それだけだった。死んだ、とは書いていない。火災、とも。命令者の名前もない。ただ、処理済み。エレノアは何度もその四文字を見た。ヴァイスの声が耳の奥で戻ってくる。
『妹君なら、もう死んでいる』
『数日前だ。王都邸の別棟が焼けた』
あの男は、知っていた。少なくとも、そう教えられていた。そして今、その情報が依頼資料の中にある。
「あなたが調べたのではなかったのね」
エレノアは紙へ向かって言った。ヴァイス自身が王都邸の火災を確認したわけではない。依頼を渡した側から、妹はすでにいないと聞かされていただけだ。ならば、誰がこの一行を書いたのか。誰が《灰鴉》へ、リシェルは処理済みだと伝えたのか。
エレノアは別の帳簿を開く。自分の依頼に関する支払い記録。日付。仲介経路。受取人。補足書の日付は書かれていない。紙も同じ。インクも、見ただけでは分からない。
「同じ人とは限らないわ」
声に出して確認した。自分を殺すよう依頼した者。リシェルを「処理済み」と伝えた者。同じかもしれない。別かもしれない。そこを一緒にしてはいけない。エレノアは紙を二つの束へ分けた。一つは、自分の暗殺。もう一つは、リシェル。混ぜない。分からないものは、分からないままにしておく。今は。
◇
昼を過ぎるまで、エレノアは帳簿を読み続けた。《灰鴉》は、思っていたより長く王都の仕事を受けていた。護衛。脅迫。失踪。殺害。依頼名は符号化され、相手の実名はほとんど残っていない。ただ、金の流れには癖があった。同じ仲介人。同じ受け渡し場所。同じ種類の封蝋。何度も繰り返されている。
ミラという女が持っていた薬箱も机へ置いた。底の取引印。王家の公印ではない。だが、エレノアには見覚えがあった。王宮へ納入する薬種や衛生用品の箱で、似た印を見たことがある。王太子妃になるための宮中実務を学んでいた頃、備品帳簿を見せられたことがあった。同じものかは断定できない。けれど、王都の上層と無関係な印には見えなかった。
「王宮」
その言葉を口にすると、胸の奥が冷えた。父を拘束した場所。自分を追放した場所。妹のことを尋ねても、誰も答えなかった場所。そして、自分が追放された直後に暗殺者が待っていた。偶然と考える方が難しい。だが、まだ名前がない。国王。王妃。グレゴール。レオニス。誰がどこまで関わったのか。あるいは、別の誰かなのか。
エレノアは紙を畳んだ。
「順番に調べればいいわ」
焦る必要はない。急いで間違えれば、必要な相手まで殺してしまう。まず、金の流れ。次に、仲介人。その次に、依頼を渡した手。リシェルのことは、そこから分けて追う。そう決めた。
◇
夕方。エレノアは宿を出た。服は追放時に渡された地味な旅装のまま。髪だけを低くまとめ、薄い外套の襟を上げる。王都から離れた宿場では、元伯爵令嬢の顔を知る者は少ない。それでも、人の多い場所には長くいない方がいい。食料と紙を買うため、街道沿いの市場へ入った。
そこで、自分より先に《灰鴉》の話を聞いた。
「《鉄狼》がやったってよ」
乾燥肉を包んでいた店主が、隣の客へ言った。
「鉄狼?」
「ヘクター・グランツだよ。昔、盗賊団を一人で潰したっていう」
「まだ生きてたのか、あいつ」
「生きてるどころか、灰門の《グレイ商会》を朝方に潰したらしい」
エレノアは包みを受け取りながら黙って聞いた。ヘクターは約束を守ったらしい。話はもう広がっている。
「商会じゃなかったのか?」
「裏じゃ《灰鴉》って殺し屋だったそうだ」
「本当に一人で?」
「さあな。王都から調べに来るって話だ」
エレノアの手が止まった。
「何を調べるのです?」
思わず尋ねる。店主がこちらを見た。
「ああ、さっき入った話じゃ、王都の役人が現場を見るらしい。あれだけの連中を本当に一人でやったのかってな」
「そうですか」
「有名な殺し屋の巣だからな。別の連中が動いたなら、それはそれで厄介だろ」
店主は何気なく言った。
「王都も放っておけんさ」
エレノアは代金を払った。
「ありがとうございました」
市場を出る。歩きながら、今聞いた言葉を繰り返す。王都から調べに来る。本当にヘクター一人なのか。別の者がいたのか。自分が《灰鴉》を潰してから、まだ一日も経っていない。
「早いわね」
依頼した側なら、十人が戻らないことを知るはずだった。《灰鴉》そのものが壊滅したと聞けば、誰がやったのか確かめたくなる。
エレノアは足を止めた。夕暮れの街道の向こう。王都へ戻る荷馬車が何台も見える。自分から依頼主を探し回る必要はないのかもしれない。向こうから、確認しに来るのなら。
「見ていればいいのね」
誰が来るのか。誰へ報告するのか。どこへ戻るのか。それを追えばいい。エレノアは市場へ戻らず、王都へ続く街道を見つめた。王都から来るという調査役を、ここで待つことにした。




