第10話 灰鴉の巣
《グレイ商会》の看板は、暗殺者の巣にしては、拍子抜けするほど地味だった。灰門地区の裏通り。二階建ての石造りの建物に、黒い文字で商会名が書かれている。表窓には傭兵募集と護衛依頼の札。戸口の脇には荷車が二台。知らなければ、夜明け前まで人が出入りする小さな傭兵商会にしか見えない。
エレノアは通りの角から建物を眺めた。空はまだ暗い。オーレンの話では、ヴァイスたち十人は明朝ここへ戻る予定だった。戻らなければ、早ければ昼までに外へ連絡が走る。それでは遅い。自分が生きていると、依頼した者へ伝わってしまう。そうなれば、証拠を消されるかもしれない。あるいは、二度目の殺し屋が来る。どちらでも困る。
「先に消してしまえばいいのね」
エレノアは小さく呟いた。腰には、いつもの小刀。外套の内側には、オーレンから奪った鍵束。そのほかには何も持っていない。
正面から入る必要もなかった。エレノアは商会の横を通り過ぎ、隣の古い染物工房へ回る。戸板は半ば朽ち、店名も読めない。オーレンが話した抜け道は、この地下にある。裏口の錠へ触れる。錠前を壊せば音が出る。壊さなくても開く場所があった。金具を押さえ、わずかに持ち上げる。古い扉が静かに開いた。埃の匂い、空の染料桶、床板の一枚だけ釘が新しい。エレノアはそこへ手をかけた。地下へ続く階段が現れる。
◇
最初の罠は、階段の七段目にあった。細い糸。踏めば壁の穴から矢が出る。切る必要はない。糸を引いている小さな金具だけを外す。次は床板。その次は扉の上。暗い通路には、侵入者を殺すための仕掛けがいくつもあった。よくできている。けれど、壊れる場所はどれも見えた。エレノアは一つずつ、音を立てずに無力化していく。
地下通路の先に、石壁へ埋め込まれた扉があった。向こうから声がする。
「......まだ戻らねえな」
「王都を出た女一人だろ。ヴァイスなら朝までには――」
エレノアは扉を開けた。二人がこちらを見る。一人は椅子、一人は壁際。どちらも腰に武器があった。
「誰だ」
「エレノア・ヴァルモントです」
名乗ると、二人の表情が変わった。一人が剣へ手を伸ばす。
「なんで――」
最後まで言わせなかった。剣を抜こうとした腕の内側へ入り、小刀を一度。男が崩れる。もう一人が警報用の紐へ飛びついた。紐より先に、その手へ刃が届く。声を上げる前に喉へ触れた。静かになる。
エレノアは二人を見下ろした。
「ヴァイスさんは戻りません」
答える者はいなかった。それでよかった。ここで話をするつもりはない。聞く相手は、もう十分に選んだ。今必要なのは、記録だった。
◇
一階へ上がるまでに、三人と会った。全員、エレノアを見ると武器を抜く。誰も逃げなかった。ここが何の場所か知っている人間なのだろう。だから、エレノアも止まらなかった。
一人目は短剣。二人目は弩。三人目は術式札を取り出した。詠唱が始まる前に、壁際の魔石留めへ小刀を投げる。留め具が外れ、魔石が床へ落ちた。淡い光が消える。
「な――」
術者の息が止まった。魔術を消したのではない。使うための道具を壊しただけだった。小刀を拾い、先へ進む。
物音はもう隠せない。上階で椅子が倒れた。
「侵入だ!」
扉が三つ開く。階段の上から人が降りてくる。エレノアは立ち止まった。数える必要はない。オーレンの言ったとおり、十数人はいるらしい。けれど問題にはならなかった。狭い階段では、一度に来られる人数が決まる。前の人間が邪魔になる。弩は後ろから撃てない。剣は壁に当たる。逃げ道は、先ほど自分が通ってきた地下と表口と裏口。どこを塞げば、誰がどちらへ動くか、全部見えた。
「止まれ!」
先頭の男が叫んだ。
「何者だ!」
「先ほど名乗りました」
「ヴァルモント......?」
別の男が息を呑んだ。
「ヴァイスはどうした!」
「死にました」
その一言で、全員の動きが変わった。迷いが消える。殺すための動きになった。エレノアも同じだった。
最初の男が踏み込む。一歩。次の男がその肩越しに短剣を投げようとする。右奥の女は弩を持っている。階段上にはさらに二人。エレノアは前へ出た。小刀が一度動く。先頭が倒れる。その身体が二人目の足を止める。短剣が手から落ちる。二人目。弩の弦が鳴る前に三人目。階段を上る。誰かが後ろへ下がった。誰かが別室へ走る。
「裏から出ろ!」
声が飛ぶ。エレノアはそちらへ行かなかった。裏口へ走った者は、外へ逃げるのではない。壁際の机に置かれた小さな通信具へ向かっている。銀の枠に収められた魔石。短距離の符号を送るためのものだろう。エレノアは床に落ちていた短剣を拾い、投げた。魔石の固定具が割れ、通信具が机から転がる。
「何を――」
男が振り返る。そこまでだった。連絡はさせない。それが一番大切だった。
◇
建物が静かになるまで、長くはかからなかった。エレノアは息を整える必要もなかった。袖に血がついている。頬にも一筋。自分のものではない。床に倒れている人間の数を確認する。動く者はいない。表口。裏口。地下通路。どこからも逃げた者はいなかった。
エレノアは階段を地下へ降りた。地下二階。オーレンが言ったとおり、突き当たりに鉄扉がある。鍵束から細長い黒鉄の鍵を選ぶ。一度で開いた。中は武器庫ではなかった。棚、箱、帳簿、封蝋のついた包み。壁一面に、紙が並んでいる。エレノアは入口で一度止まった。人を殺すより、こちらの方が重要だった。
「全部は持てないわね」
まず帳簿。次に依頼書。支払い記録。連絡先を示す紙。印章。暗号表らしき薄い冊子。読むのは後でいい。今は失わせないことが先だ。机の下に革鞄が二つあった。紙を詰める。
棚の奥から、小さな薬箱も見つかった。見覚えがある。街道で死んだ女が持っていたものと同じ印だった。箱の底には、取引時に押されたらしい小さな印章痕がある。王宮の正式な印ではない。けれど、貴族家か役所が使いそうな意匠だった。エレノアは薬箱も鞄へ入れた。今は意味が分からなくても、後で比べられる。
最後に、机の引き出しを開ける。一番上には、未処理の依頼書が数枚。その下、厚い紙包みが一つ。表に名前が書かれていた。
『エレノア・アウレリア・ヴァルモント』
自分の名だった。エレノアの手が止まる。開きたい。けれど、外はもう夜明けが近い。ここで読み始めれば、時間を失う。紙包みごと革鞄へ入れた。
「あとで、ゆっくり読みましょう」
誰にともなく言った。そして部屋を出た。
◇
空が白み始めた頃、ヘクター・グランツが《グレイ商会》の裏口へ現れた。昨夜とは違い、酒の匂いがしない。背には大剣。額には、エレノアがつけた細い傷が残っている。エレノアは裏口の壁にもたれて待っていた。
「遅刻しませんでしたね」
「俺は昔から時間だけは――」
ヘクターが言いかけて止まる。開いた扉の向こうを見る。床。壁。倒れた人影。さらに奥。口を閉じた。
「何人いた」
「数えていません」
「数えろよ」
「必要ですか?」
「......いや」
ヘクターは額の傷へ触れた。
「本当に一人でやったんだな」
「はい」
「お前、昨日の三本、ずいぶん手加減してたんだな」
「もちろんです」
エレノアは当然のように答えた。ヘクターは何も言わなくなった。
「金庫は地下です」
「急に普通の話へ戻るな」
「戦利品は半分ですから」
「分かってる」
「帳簿と紙類には触れないでください。もう回収しました」
「そこまで終わってんのか」
「はい」
「俺、何しに来たんだ?」
「あなたがやったことにするためです」
「そうだったな......」
ヘクターは建物の中へ入った。数歩進んでから、振り返る。
「お前はどうする」
「少し離れます」
「俺に全部押しつけて?」
「半分差し上げます」
「金の話じゃねえ」
「では何の話です?」
ヘクターは答えなかった。
「人に聞かれたら、昨日お話しした通りに」
「俺が潰した」
「はい」
「一人で」
「昔と同じように」
「雑だな」
「詳しくすると間違えますよ」
「それはそうだ」
エレノアは二つの革鞄を持ち上げた。
「それでは」
「待て」
ヘクターがもう一度呼び止める。
「何でしょう」
「あんたの名前、本当に聞かなくていいんだな」
エレノアは少し考えた。
「聞かない方が、あなたのためです」
「......そうか」
「ただ」
エレノアは自分の名が書かれた紙包みの入った鞄へ目を落とした。
「もし私のことを探す人が現れたら、覚えておいてください」
「誰が来たかを?」
「ええ」
「それをどう伝える」
「私から会いに来ます」
ヘクターの顔が少し引きつった。
「来なくてもいいんだが」
「必要なら来ます」
「そうかよ」
エレノアは裏口から外へ出た。灰門地区の空が、少しずつ明るくなっている。背後には《灰鴉》の死体と金を残した。手元に残したのは、紙だった。
誰が自分を殺そうとしたのか。誰がリシェルの死を知っていたのか。答えがあるとすれば、その中にある。エレノアは二つの革鞄を抱え、朝の王都から姿を消した。




