第9話 鉄狼
《鉄狼》ヘクター・グランツは、酒場の隅で眠っていた。正確には、眠っているように見えた。片腕を卓へ投げ出し、その上へ額を預けている。空いた酒杯が三つ。半分残った四つ目。足元には使い込まれた大剣が壁へ立てかけられていた。
西街道沿いの宿場町で、エレノアがその男を見つけたのは、その夜遅くだった。昔は金級冒険者。大型魔獣を一人で倒し、山道を塞いだ盗賊団を壊滅させたこともある。今は酒に沈み、金がなくなれば護衛仕事を受ける。宿場で聞いた噂は、だいたいそんなものだった。
エレノアは男の向かいへ座った。
「ヘクター・グランツさん?」
返事はない。近くの卓から笑い声が上がった。
「起きねえぞ、そいつ」
「金でも貸してほしいのか、お嬢ちゃん」
「やめとけ。返ってこねえ」
エレノアは気にせず、卓の上の酒杯を一つ端へ寄せた。その瞬間、眠っているはずの男の手が動いた。倒れかけた酒瓶を、見もせずに掴む。
「人の酒に触るな」
低い声だった。ヘクターが顔を上げる。三十八歳という年齢より、少し老けて見えた。伸びた黒褐色の髪。数日剃っていない顎。鼻筋には古い傷が一本走っている。だが、酔いで濁っているように見えた目だけは違った。エレノアを見る。次に、入口。窓。腰の小刀。視線が一度で部屋を回った。酒に沈んではいる。それでも、ただの酔っ払いではない。エレノアは少し安心した。
「仕事をお願いしたいのです」
「断る」
「まだ内容を言っていません」
「面倒そうだからな」
ヘクターは酒瓶を傾けた。
「護衛ならギルドへ行け。人探しならもっとましな奴を雇え。貴族の揉め事なら俺を巻き込むな」
「貴族に見えます?」
「喋り方がな」
「なるほど」
「否定しねえのかよ」
ヘクターは鼻で笑った。エレノアは卓の上へ小さな銀貨を一枚置く。
「話を聞く分です」
「安い」
もう一枚置く。
「まだ安い」
三枚目を置く前に、ヘクターが手で止めた。
「冗談だ。話せ」
エレノアは銀貨を二枚だけ残した。
「近くに、盗賊の根城があります」
「衛兵へ言え」
「普通の盗賊ではありません」
「じゃあ冒険者ギルドだ」
「あなたにお願いしたいのは、討伐そのものではないのです」
ヘクターの眉が少し上がった。
「何をさせる」
「私がそこを潰します」
しばらく沈黙があった。隣の卓では誰かが笑っている。厨房から皿の重なる音が聞こえる。ヘクターだけが、笑わなかった。
「......続けろ」
「その後、あなたが潰したことにしてください」
「は?」
「戦利品は半分差し上げます」
「待て」
ヘクターが身体を起こした。座っていても肩幅が広い。酒で崩れていた姿勢が整うと、酒場の椅子が急に小さく見えた。
「お前が盗賊の根城を潰す」
「はい」
「俺は何もしない」
「細かな指示には従っていただきます」
「それで半分?」
「はい」
「何のために」
「私の名前を残したくないからです」
「俺の名前は残っていいのか」
「残したいのです」
ヘクターの目が細くなる。
「俺が昔、盗賊団を一人で潰したことまで調べたか」
「宿場で教えていただきました」
「誰が」
「何人か」
「口が軽いな、ここは」
「有名なのですね」
「昔の話だ」
ヘクターは酒杯へ手を伸ばした。しかし飲まず、指先で縁を回す。
「つまり、昔の俺ならやれたと思わせたい」
「ええ」
「今の俺じゃ無理だと思われたら?」
「不可能だとは言い切れないでしょう?」
ヘクターの指が止まる。エレノアは続けた。
「それで十分です」
確実に信じてもらう必要はない。むしろ、疑われるくらいでいい。《灰鴉》を潰したのはヘクターなのか、別の誰かなのか、自分は生きているのか――依頼した側が確認したくなる程度に、答えを曖昧にしておく。そのために、ヘクターの名前はちょうどよかった。
「盗賊の名前は?」
「今は言えません」
「場所は」
「受けてくださるなら、手紙に書きます」
「人数」
「分かりません」
「おい」
「十人以上はいるでしょう」
「お前一人で?」
「はい」
ヘクターはエレノアを見つめた。視線が、細い肩から腰の小刀へ移る。
「武器はそれか」
「今は」
「魔術師には見えねえな」
「違います」
「仲間は」
「いません」
「死にたいのか」
「いいえ」
エレノアは即答した。
「まだ聞きたいことがありますから」
「誰に」
「それはあなたには関係ありません」
ヘクターはしばらく黙っていた。やがて酒杯を空にする。
「半分か」
「はい」
「中に金がなかったら?」
「その時は何もありません」
「武器や宝石は」
「金に換えられるものは戦利品として数えます」
「帳簿や手紙は?」
「私が取ります」
「金目の物じゃねえのか」
「私には価値があります」
「なるほどな」
ヘクターは口元だけで笑った。
「で、お前は誰だ」
「名前も、あなたには必要ありません」
「俺の名前だけ使って、自分は名乗らねえ?」
「その代わり、半分です」
「気に入らねえな」
「では断りますか?」
「いや」
ヘクターは卓へ肘をついた。
「条件を変える」
「どう変えるのです?」
「全部よこせ」
エレノアは瞬きをした。
「全部?」
「お前は紙が欲しいんだろ。金も武器も宝石も俺がもらう。名前まで貸すんだ。それくらいは当然じゃねえか?」
酔っている。けれど、目は笑っていなかった。試しているのだと、エレノアには分かった。どこまで譲るのか。どこまで脅せば引くのか。昔から荒事の中で生きてきた人間なのだろう。
「全部ですか」
「嫌なら他を探せ」
「そうですね」
エレノアは立ち上がった。ヘクターもわずかに身構える。酔っていても、立ち上がった相手から視線を外さない。
「では」
エレノアは言った。
「一度だけ確認しておきましょう」
「何を――」
ヘクターの言葉が止まった。額に、冷たいものが流れた。指で触れる。赤い。浅い傷だった。
「......は?」
ヘクターの目が鋭くなる。椅子を蹴って立つ。右手が大剣の柄へ伸びた。その時、首筋にも細い痛みが走った。手が止まる。
「動かない方がいいですよ」
声は背後から聞こえた。ヘクターが振り向く。誰もいない。エレノアは、もう反対側に立っていた。背中の服が、すっと細く裂ける。皮膚にも同じ程度の浅い傷が一本。深くはない。どれも血がにじむだけだった。だがヘクターの顔から、酔いが消えた。額。首。背中。三度。一度も見えなかった。
エレノアは小刀についたわずかな血を布で拭った。
「欲張り者は命を落としますけど、どうされますか」
酒場の喧騒は変わらない。誰もこちらを見ていなかった。ヘクターは大剣の柄を握ったまま、動かなかった。強い人ほど、分かるのが早い。次に同じ場所へ刃が入れば。ほんの少し深ければ。どうなるか。エレノアは説明しなかった。
「......半分だ」
ヘクターが言った。
「はい?」
「最初の条件でいい」
「よかったです」
「よくねえよ」
大剣から手を離す。ゆっくり椅子へ座った。
「お前、何者だ」
「先ほど答えました」
「答えてねえ」
「名前は必要ありません」
「......そうだったな」
エレノアは懐から折りたたんだ紙を出した。
「明日の朝、これを開いてください」
「今じゃ駄目なのか」
「駄目です」
「理由は」
「今夜、酔って誰かに話されると困ります」
「信用ねえな」
「先ほど全部欲しいと仰ったので」
「根に持つタイプか?」
「いいえ」
「絶対嘘だろ」
エレノアは紙を卓へ置いた。
「中に、場所と時間と、あなたにしていただくことを書いてあります」
「俺は戦わなくていいんだな」
「私が終わらせます」
「それから俺が行く」
「はい。中にある物を確認して、指定したもの以外から半分を受け取ってください」
「指定したもの?」
「帳簿、手紙、印章、依頼に関する記録。紙類は私のものです」
「金になりそうでも?」
「駄目です」
「分かったよ」
「人に聞かれたら、あなたが潰したことにしてください」
「どうやってって聞かれたら?」
「昔と同じように、とでも」
「雑だな」
「詳しく話すほど矛盾が増えます」
ヘクターは紙を指先でつまんだ。
「これ、読み終わったら?」
「焼いてください」
「焼かなかったら」
「困ります」
「それだけか?」
エレノアは微笑んだ。
「今夜のことも、私のことも、誰にも話さないでください」
「話したら?」
「殺します」
即答すると、ヘクターは額の傷へ触れた。
「......分かりやすくて助かる」
「ありがとうございます」
「褒めてねえ」
エレノアは席を立った。
「では、明日の朝に」
「待て」
呼び止められる。
「何でしょう」
ヘクターはしばらくエレノアを見た。
「お前、本当に一人で行くのか」
「はい」
「そこが何人いるかも知らねえのに?」
「問題ありません」
「そういう意味じゃ――」
ヘクターは途中で言葉を切った。自分の額、首、背中に残った傷を思い出したのだろう。
「......いや。もういい」
「そうですか」
エレノアは酒場を出た。扉が閉まる。卓の上には、半分残った酒杯と、折りたたまれた紙が残った。ヘクターはしばらく、どちらにも手を伸ばさなかった。やがて紙を懐へ入れる。酒杯へ手を伸ばす。指先が縁に触れた。そこで止まった。
《鉄狼》ヘクター・グランツが、酒に飲まれたのは、その夜が最後だった。




