十之八
鬼巌坊の左右の拳が交互にふるわれる。
と同時に背中から放射状に――まさに千手観音か阿修羅のごとくに、のびた無数の腕が、攻撃に移る。
嵐は旋律の律動によって体内の霊気を両手のひらに集中させ、襲い来る凄まじいばかりの拳の奔流を次から次に防御していく。
鬼巌坊の無数の腕の残像と、嵐の手の残像が重なり、互いの霊気が反発しあい、互いをはじきはじかれるたびに空気がはじけるような爆発音が発せられる。次々に重なる爆発音はまるで音楽を奏でてでもいるかのようだ。
「こしゃくな!」鬼巌坊が叫ぶ。
いつはてるともわからぬ拳の乱打に、嵐はしだいに後退を余儀なくされていった。常人では肉眼でとらえきれぬほどのスピードで、拳の乱打をはじきつつも、一歩一歩後ろに押されていっている。気がつけば、背には燃える武家屋敷の塀が、間近に迫っていた。
「砕け散れい!」
鬼巌坊の一声とともに、乱打の速度がさらに倍増した。
乱打を払いながらも、嵐は吹っ飛ばされた。塀に背が打ちつけられ、塀はたちまち粉砕され、さらにやむことのない拳の乱打に、嵐の身体は瓦礫のなかにうずもれていった。
うずもれてもなお、鬼巌坊は攻撃の手をゆるめない。瓦礫が砕け砂礫に変じても手をゆるめない。
嵐は叫んだ。絶望の叫びではない。己を奮い立たせる叫びであった。
「燃え上がれ霊力の旋律!鳴り響け鼓動の律動!」
瓦礫を気合いで吹き飛ばし、嵐は崩れた身体を起こし、氣の腕の攻撃を、受けるだけでなく、拳で撃ち壊し始めた。
「な、なんとっ!」
驚愕する鬼巌坊の周囲で、彼の拳が繰り出されるたびに、ひとつ、またひとつ、破壊されていくのであった。
ほんの数度瞬きをするくらいの間に、無数にあった鬼巌坊の氣の腕が、まったく失われてしまった。
たまらず、鬼巌坊は後ろに跳んで間合いをとった。
さらに嵐が雄叫びをあげる。鼓膜を震わさんばかりの叫声が燃える大坂の街にこだました。
「裂破風迅拳!」
技を叫ぶとともに嵐が鬼巌坊に向けて跳んだ。拳には旋律の律動によって生み出された、刃のように鋭い、真空のつむじ風をまとわせている。
数間の距離を一瞬に詰め、旋風の右拳が繰り出される。その凄まじい一撃を鬼巌坊は左腕で防御した。
だが、嵐の拳は防御したその腕を砕き折り、彼の岩のような胸板に喰い込み、肋を割り、心臓を貫いた。
「ぬう」鬼巌坊がうなった。
左腕は肘の上から千切れ飛び、もはやどこに飛んでいったかすらもさだかではない。
静寂がふたりを支配した。
燃える炎も、死人兵たちのうめきも、逃げまどう人々の叫喚も、もうふたりの耳にはとどいていないだろう。
「ようやった」やがて鬼巌坊が云った。「ようやった、ようやった、嵐よ。我がいとしい弟子よ」
へっと嵐が小さく笑った。
「お前の弟子になったおぼえはねえよ」
「ようゆうわ。これまでの闘いでどれだけわしから学んだ。わしの武技を盗んだ」
嵐の笑む唇は、たちまち苦渋にゆがんだ。
「そうれ、わかったか。お前はわしの立派な愛弟子よ」
肉から腕が抜ける嫌な音とともに、鬼巌坊の身体が倒れていった。倒れ、地に達するまでの間、彼の脳裏にはまさに走馬灯のように人生が呼び起こされた。
日本の、堕落した仏教界と強者が弱者をさいなむだけの時世に絶望し、希望を求めて明に渡った。渡ってもその地は混乱し、混乱にあえぐ民衆とそれを利用して利をむさぼる宗教人たちが横行していた。ひたすら少林拳を修行し、それでも拭えぬ絶望のなか帰国し、花神恭之介という男に出会い、気の向くままに彼の計略に加担してきた。そして、伊賀崎嵐という逸材に出会った。
地響きを立てて大地に倒れた瞬間、彼は絶命した。心の底からその武芸の才に惚れ込んだ女に倒され、その自分の死に様に満足の笑みを浮かべながら、死んだ。
「ばかやろう」
嵐は、鬼巌坊の充足しきったような死に顔に、静かにつぶやいた。
不思議と、感動するものは何もなかった。宿敵をようやく打倒したというのに、まるで歓喜が湧いてこないのだ。ただ心にぽっかり穴があいたように、寂寞とした虚無が胸の深奥に湧いただけであった。




