十之七
鬼巌坊の身体が地に沈んだ。ように見えた。
彼は腰をぐっと下げた。脚を前後に開き、地に尻がつきそうなほど腰を落とした。
くるな、と嵐は直感した。
直感した拍子に鬼巌坊が動いた。腰を落とした姿勢から、反動もつけずに飛びあがった。
嵐は恐れずにひょいと前進した。
空中で鬼巌坊の脚が水車のように回転し、左脚が嵐の頭上高くから襲い来た。
そのつま先を躱し、嵐はすっと腰を落として飛びあがりながら、落ちてくる鬼巌坊めがけて拳を突きあげる。
鬼巌坊は落下体勢のまま無理に身体をひねってその鋭い突き上げをよけた。
ふたりの体が入れかわる。
着地した鬼巌坊は、そのまま地につかんばかりに身体を折り曲げ、独楽のように回転しつつ、後背の嵐に向けて回し蹴りをしかけた。
振り向いた嵐は、ぎょっとして、一歩退った。
また鬼巌坊が跳んだ。跳ぶと同時に、二本の脚が振り上げられた。
Vの字に広げられた脚が届く瞬間、胸を反らせて嵐はよける。
鬼巌坊が着地した一瞬を見逃さず、嵐は攻撃に転じた。
正拳の突きを、鬼巌坊の顔面めがけて突き出した。
鬼巌坊はひねって躱す。
追って嵐は左の正拳突きを放つ。
それも鬼巌坊は躱す。
さらに嵐の右正拳突き。
鬼巌坊は今度は左手で突きをいなした。いなしつつ右の腕が回って、手の甲が嵐の顔に向かって来る。まるでつむじ風のような裏拳である。
避けようとしたが間に合わず、嵐は頬をしたたかに殴りつけられた。
わずかによろめいた刹那に、鬼巌坊の左拳が追撃してくる。
嵐はそれを肘で払った。そしてお返しとばかりに自分の左拳を突き出す。
そのまだ腕が伸びきらず、勢いのまったく衰えていない拳を、鬼巌坊が右手でつかみ、自分の左拳を突き出した。
今度は嵐がその拳をつかむ。
一瞬、ふたりの視線が絡んだ。
ふたりは同時に相手の腕を離し、後ろに跳んで距離をとった。
そして同時に右腕を振るう。
同時に左腕でいなす。
直後にはまた同時に左腕が突き出されて、同時に右腕で防御する。そして何度も何度も、同時に突き出された拳は同時に防御され、やがて同時に後ろに引いて間合いを取った。
おかしなものだ、と嵐は思った。妙な感覚である。まるで自分と鬼巌坊の呼吸までが同調し、鼓動さえも同時に胸を打ちつけている、そんな感覚である。
鬼巌坊は背筋に悪寒を感じている。一連の攻防は以前の闘いと似通ってはいるが、嵐は格段の進歩を見せている。動きにまるで無駄がなくなったし、そこに練り込まれた霊気の質が精練されている。
――いつも余裕をもって対峙していたのはわしのほうであったに、いまではわしが背筋に冷や汗を浮かせておる。この女、もうすでにわしに完全に追いついておる。
そして、今この瞬間に自分を凌駕しつつある。そんな畏怖に似た感覚が背筋に走ったのである。
鬼巌坊は脚を左右に大きく開くと、胸の前で手を打ち合わせた。打ち合わされた手のひらが、宵闇にこだました。そうして手を合わせたまま、気合いを集中させるように力がこめられ、合わされた手のひらが小刻みに震えていた。
「すばらしい。うれしいぞ、嵐よ」
「…………」
「だからこそ、全身全霊をお前にぶつけよう」
「…………」
「まさかこの技を、人間相手に使う日がこようとは、夢想だにせなんだ」
云い終わると、鬼巌坊は突如気合いの叫声を発した。
高められた氣が鬼巌坊の全身から膨満し、弾け、奔流のように周囲に流れ出した。
溢れ続ける氣は空気を震わせ、大地をも揺るがすようだ。
嵐は、襲い来るであろうすさまじい攻撃を予想し、身を構えた。
鬼巌坊が低く云った。
「おのれの無力を悟って死ね」
そしてはっと気合いを入れる。
「喰らえい、金剛千手拳!」
一声と同時に、鬼巌坊の背に無数の、筋骨たくましい腕があらわれた。
氣によって形成された腕であった。
もとより人の持つ氣は、膨大で強力であれば、人の肉眼で靄のように見えることがある。だが、ここまではっきりと、そして現実味を持って眼に映るなどありえるだろうか。
嵐は、瞬時おののいた。直後に高揚した。
――どんな攻撃が襲ってきても、すべて粉砕してやる。




