十之五
地上二十メートルほどの高さからの落下であったが、墜落は数瞬である。そのうえ無数の触手がもつれあいながら、伸びあがってくる。
激突までは瞬く間であった。
考える間などは、ない。
碧は無意識のうちに手を頭の上に――地上から渦を巻いて伸びあがってくる触手の群れに向けて伸ばした。そうして、旋律の律動を二刀に流し込んで、触手の渦に突撃した。
碧の持つ二刀に流れる霊気に弾かれるように、触手たちはいっせいに、蓮の花が花弁を開くように、ぱっと広がった。
だが、触手たちはひるまぬ。
広がったまま、軌道を上空に変え、伸び切ったところで、いっせいに地上へと落下する碧を追うように――外から内へと花弁が閉じるように触手たちは獲物に向かう。
地上へ落下するのは数瞬と思われたが、刀から放った霊気のせいであろう、碧の落下速度にブレーキがかかった。ゆえに、碧の脚がまだ天に向いているうちに触手の先端が足の裏に触れるほどに接近してくる。
碧はくるりと身体を返して着地する。
触手が追いつく。
と同時に、碧は今度は身体を回転させつつ、周囲三百六十度に向けて旋律の律動を放った。
放射状に広がった霊気の円盤は、触手の先端を斬り落とし、さらに広がって触手の付け根を斬った。
勢いのままさらに回転する。さらに触手を分断する。さらに回転、さらに分断。
いくつもの細切れとかした無数の触手は、斬られた反動で周囲数十間にわたってその肉塊をどす黒い体液とともに撒き散らした。
触手の本体である怨魔閻羅の妖気が、ふっと乱れた。乱れた瞬間に霧が薄らいだ。
碧は各務の姿を十五間ほどさきに捕らえた。
その姿に向けてだっと走り出す。
「おのれ、小娘ッ!」
各務の罵声をさえぎるように、ふたりの間の大地から黒い山が盛り上がりでてくる。軟質のまるで巨大な黒い蛸のような物体がみるみる膨れあがり、碧の行く手に立ちふさがる。各務にとっても意外であったのだろう、
「怨魔さま!?」
その驚愕は山の向こうに掻き消えるが、碧は脚をとめはしなかった。
三間(五メートル半)ほどの小高い丘のような怨魔閻羅の本体に向けて駆け、跳んだ。
極限まで弦をひきしぼった弓のように身体をそらせ、反動をつけ一気に振り上げた両刀を振り下ろした。暁星丸と忍者刀の刃から放たれた霊気の剣圧が、うすくとどまる霧を斬り裂きながら突き進み、怨魔閻羅の本体をまっぷたつに斬り割った。
まるで怪鳥の鳴くような耳をつんざく悲鳴をあげて、裂けた胴体がくずれ、周囲の無数の触手が苦悶するようにのたうつ。
「怨魔さまッ!」
各務の、悲痛な叫声であった。
怨魔閻羅を飛び越えて着地した碧は、その声に向けてさらに走る。
あっと各務が叫んだ時には、すでに碧はその懐に飛び込んで、暁星丸がそのふくよかな胸を貫いていた。
後ろに倒れるように見えた各務は、しかし、倒れはせず、身体から刀を引き抜いてよろよろと碧にはまったく目もくれぬ様子で歩き出した。
「恭之介様」
碧のそばをすれ違いざま、唇からぽつりと漏れた。端から血を流しながらも鮮烈なまでに艶めく唇だった。
各務のなかば閉じられた瞳に映っているのは、花神恭之介の姿であった。
羽舟村で、神とあがめられる妖魔怨魔閻羅の生け贄にされ、儀式と称して村の男たちに嬲られつづけ、涙も枯れるほどの絶望のなかで生きていた各務を、天からくだりきたように現れた花神恭之介は救い、救っただけでなく各務に真実の愛を与えてくれた。村でたったひとりだけ、半ば呆けた老婆だけが各務に優しくしてくれたが、それは愛に似てあくまで憐憫であった。花神恭之介の愛は、その老婆から受けた憐憫とは違う、形容しがたいほどのぬくもりに満ちた愛であった。
よろよろとした足取りで各務の向かう先には、まっぷたつに引き裂かれてもなお、命脈尽きることなくうごめきつづける怨魔閻羅の本体があり、各務はその前にすっと立ちどまった。
「さあ、約束の刻ぞ」各務は怨魔閻羅にささやくようにつぶやいた。「契約どおり、我が屍を喰らうがよい」
その声に応じるように、あまたの触手が肉塊のなかからあらわれ各務を包み込んだ。まるで、彼女をいつくしむように、赤子を抱擁するような包みかただった。
「恭之介様ぁっ!」
各務の絶叫とともに、彼女をつつんだ触手は大地にとけるように沈んでいった。
碧はそこまで見、たまらず眼をそむけた。
巻きついていった触手が顔を覆う最後の刹那、各務の唇は笑っていた。
――なぜ笑えるのだ。
と碧は思う。愛した男のために走狗となって命果てるのが、各務にとっては幸せだったのだろうか。碧にはわからない。




