十之四
碧は歯噛みした。
ふと気がつけば、周囲が霧に覆われている。
あれだけ重囲をめぐらしていた死人兵たちもいずこかへ消えてしまった。町を焼く火焔の明かりも瞬く間に白くぼやけてきている。
霧は妖気で満ちている。
粒子のような水滴のひとつぶひとつぶが、碧の肌にじっとりとまとわりついて、しかもなにか異様な重さがあった。
以前、九度山で体験していた、各務の操る妖魔怨魔閻羅の発する霧であった。霧のなかは怨魔閻羅の独壇場へと変化する。
碧は徐々に方向感覚が奪われはじめていた。焦る気持ちを、深呼吸して落ち着ける。
各務の含み笑いが聞こえてきた。だがもうどこから聞こえてくるのかわからない。先ほどまでは前方数間先にいたはずなのに、右にいるのか左にいるのか、気配も声もまるで居場所がつかめない。
「恭之介様を惑わす、小面憎い小娘め。妖霧につつまれ、なすすべもなく怨魔さまにじわりじわりといたぶられながら、命つきるがよいぞ」
はっとして碧は横跳びに跳んだ。跳んだ直後に触手が走り抜けた。
さらに跳ぶ。
触手が襲う。
触手は槍のように突き込んでくるかと思えば、次の触手は鞭のように上空からうなりをあげて振ってくる。次々に襲って来る触手を、碧はすんでで見切って跳び、身体を回し、どうにか躱し続けた。
「ほほほ、いつまでそうやって躱していられるか、見ものじゃわえ」
各務の嘲弄の声を聞き流しつつ、しかし碧はいけないと思った。碧はどうにか直前に気配を察して躱しているのに、むこうはこちらの位置も動きもまるで見通している。このままでは気力と体力が奪われていくだけであった。しかも、妖霧のなかではその減少していく度合いがはなはだはげしい。
「妖剣法、胡蝶輪舞」
碧は四方八方から無尽に襲来する触手を躱しつつ攻撃に転じた。
妖力の損耗の激しい技であったが、ここで使うのを逡巡しては、ただ敵の思う壺にはまるだけであった。
蝶のように舞い、舞いつつ翅をはばたかせるように両手の刀を振った。ふわりふわりと躱しているように見えて、残像が次々に残るほどその動きは敏捷を極めている。
この十日ばかり碧は東にそびえる生駒山にこもり修行を行っていた。旋律の律動を完全に我がものにすることが目標であった。これまで意識して操ってきた旋律の律動をごく自然に、無意識にでも使えるようにならなくてはならない。そのために岩の上に座禅し、肉体をめぐる霊気の旋律を思うように律動させるべく、ひたすらに瞑目趺坐しつづけた。これは御在所岳での果心居士との修行とほぼ同じものであったが、その最終仕上げと云ってよいものだった。
そうして今、碧は奇妙なまでに霊気と身体の一体感を感じていた。
刀が翅のように羽ばたくとともに、触手が一本、また一本と切断されていった。切断された触手は半透明の粘液を撒き散らし、うごめきながら霧のなかへと消えていく。消えたと見えた転瞬、新たな触手が黒くぬめりけをおびた鰻のような体表に、白ずんだ火焔を照り返しながら、うねうねとくねりながら現れる。
それでも碧は動きをとめない。蝶は舞いつづけ、不気味な触手を斬りつづける。
「ちょこざいな小娘めっ!」
霧の彼方から各務の憤怨につつまれた叫びが聞こえた。
「お前だけは赦さぬ、お前だけはっ」
歯ぎしりの音すら聞こえそうなほどの怨声はしかし、霧に吸い込まれるようにふいにやんだ。触手たちも、急速にいっせいに姿を消していった。
数瞬の静寂が、霧中に流れた。
そしてまた、甲高い高笑いが聞こえる。各務が続けて云った。
「ほほほ、怨魔さまのほうが私よりずっと冷静じゃわえ」
はっと碧が見切ったときにはすでに、周囲三百六十度から一斉に十数本の触手が、うなりをあげて向かって来、その先端がほんの一間ばかりの至近にあった。
考える暇などなく、とっさに碧は直上にジャンプした。旋律の律動によって十数間の高さに飛びあがった。
ところへ、さらに上空から無数の触手が突き出てきた。
数本を身体をよじって躱し、数本を二刀で切り落としたが、数本は防ぐこともできず背や胸にまともに受けてしまった。
地上へとまっ逆さまに突き落とされる碧に向けて、待ち構えていたごとく、地上から無数の触手が伸びあがってくる。




