第49話 王印の重み、金の紋章
地下牢の階段を上りきると、昼の光が目に刺さった。
肺に溜まっていた冷たい空気を、ようやく吐き出す。
「歩けるか」
「歩けるよ。……本当、過保護だな」
そう返したのに肩に回されたセルガの手は外れなかった。
首筋の紋章へ、静かに魔力が流れ込んでくる。
疼きかけていたものが、足音ひとつ分ずつ凪いでいった。
◇
当初の予定通り執務室に向かった俺の前には、城の紋章入りの羊皮紙が三枚用意されていた。
「城内の管理に関する権限を、コノエ様へ移譲いたします。詳細は——」
ライゼルは眼鏡の位置を整え、淡々と詳しい内容を続けた。
「——最後に、王印の副印の保管です。陛下ご不在の際、これをもって城の決定は有効となります」
俺は思わずセルガを見た。
窓に寄りかかってこちらを眺めていた魔王は、眉ひとつ動かさない。
「……これ、一部って規模じゃないだろ」
「預けるのは一部だ」
セルガが静かに言った。
「俺が動けないときに、お前の署名で城が動く。それだけのことだ。使うかどうかは、お前が決めろ。持っているだけでいい」
その言葉の後、ライゼルが書類を机の端にそっと置く。手渡さず、少しだけ押し出すように。
(……なんだ、この距離)
「なぁ、ライゼル。そんなに畏まらなくていいって」
「公私の別は必要です。王妃候補に礼を失するわけにはまいりません」
淀みのない返答だった。
俺はため息を一つついてから、ペンを取る。
だが、署名を書こうとしたその手が止まる。
木柄か、コノエか。
「この国の署名は魂の名だ。今のお前が一番自分だと思う名を書け」
セルガの言葉に、少し悩んでからカタカナで『コノエ』と書いた。
ライゼルが書類を回収し、一度だけ紙面に視線を走らせる。
それから、少し長めにその文字を見ていた。
「……確かに、受領いたしました」
一礼して顔を上げたライゼルの表情は、いつもと何も変わらなかった。
◇
午後はセルガと別れ、ハルクと共に預かった権限の範囲を確かめて回った。
すれ違う兵が一斉に敬礼して道を空けるたび、預かったものの重さが、足の裏からじわりと分かってきた。
夕食前に一度部屋に戻ると、リリィが両手を広げて立ちはだかっていた。
「お帰りなさいませ!朝の正装は却下されましたので、一日かけて考え直しました!」
広げられたのは、見慣れた綿のシャツだった。
ただ、袖口の縁に、金の糸で小さな紋が刺繍されている。エプロンの縁にも、同じ紋がひとつ。
この紋には見覚えがあった。
書庫で読んだ魔族の歴史書に、同じ図案が載っていた。
魔王家の紋だ。ただ、本では真紅で描かれていたはず。
「……リリィ。これ、色は違うけど……王家の紋だよな?俺はまだ王妃候補だろ、候補が着たらまずいだろ」
「はい!ご懸念はもっともです!」
リリィは胸を張った。
「王家の紋は、本来は真紅が習わしです!ですが今回は、陛下の瞳の色の金で縫いました!真紅は、正式にお迎えする日までお預かりしております!バルハ様にも許可はいただいております!」
「バルハさんが……」
「はい!『弁えた範囲であれば』と!」
リリィは勢いのまま続けた。
「それに、陛下は『寵愛』を宣言なさいました。もはや式を待つばかりのお身体です!名実ともに王妃となられるお方に、王家の紋がひとつもないほうが、かえって不自然です!」
「いや、名実ともにってまだ……」
「全部ではありません、最小限に抑えました! 指先ほどの、ほんの一部です!」
確かに、紋の全体ではなく一部で、大きさも指先ほどだ。
朝のあれに比べれば、天と地の差がある。
とはいえ、パッと見でわかるメインの部分ではあるが。
「……分かった。着るよ」
「ありがとうございますっ!!」
喜びに小さく拳を握るリリィの横で、ハルクが深く一礼した。
「お似合いです、主」
「お前まで言うのか」
「事実ですので」
開いたままだった扉の外を、バルハが穏やかな会釈とともに通り過ぎる。
許可を出した張本人の笑みは、どう見ても確信犯だった。
◇
着替えを済ませ、夕飯の為に廊下を歩いていると、すれ違う兵士の視線は敬礼をしたあとに、自然と袖口へ流れた。
「……あの紋」
「王家の……それにあの色」
囁きは石壁によく響く。
何だか身体が熱くなってきたような気がして、歩調を速めた。
「お、似合ってんじゃん」
曲がり角で書類を抱えたナツカと遭遇した。
「何も言うな」
「言ってねーよ。王家の紋が、陛下の色だなー、良く似合ってんなってことしか」
「言ってんじゃねぇか!」
◇
厨房に顔を出すと、料理長が鍋から視線を上げた。
「おう、コノエ様。今日は何だ」
「明日の試作に、場所を使わせてもらっていいかな」
「ああ。……何だか、大層なもんを預かったらしいな」
料理長の目が一度だけ袖口に落ち、すぐ鍋へ戻る。
口元が緩んでいたが、それ以上は何も言わなかった。
その気遣いが、今日いちばん居心地がよかった。
「あ、あの、コノエ様!」
ガルムがお玉を持ったまま近づいてきた。
だけど犬耳が、緊張で後ろに倒れている。
「お、お似合いです!袖の金の紋も、その……!」
『王妃』という言葉を飲み込んだのが、手に取るように分かった。
「ありがとう。でも今まで通りでいいからな。変わらず俺はお前に料理を教えるから」
「……はい!」
ぴんと立った耳に、肩の力が少し抜けた。
◇
夜の王妃の間は静かだった。
一人になると、牢屋の岩肌に広がる血の色を思い出した。
(許してはいない。……それでも『死んで逃げるな』と言ったのは、俺だ)
あれが優しさだったか、残酷だったか、俺には分からない。
膝の上で拳を握ったとき、隠し扉が前触れなく開いた。
「入るぞ」
「だからノックしろ、そして三秒待て」
「隣なんだから気にすんな」
悪びれない様子で、セルガはまっすぐこちらへ歩いてきた。
視線が袖口で止まり、黄金の瞳が満足そうに細まる。
「……金か。悪くないな」
「リリィが勝手にやったんだ。宝石だらけのよりマシだったから、仕方なく」
「分かってる」
言い訳にもなっていない言い訳を、セルガは笑わずに聞いていた。
沈黙のあと、俺は口を開いた。
「……今日一日、全然慣れなかった。みんな急に丁寧になるし、ライゼルは他人行儀だし。でも、……嫌じゃなかったよ」
「そうか」
地下牢のことは、喉まで出かかって飲み込んだ。
言わなくても、この男にはたぶん伝わっている。
セルガは一言だけで、後は何も言わなかった。
ベッドの端が、ぎし、と沈む。
隣に腰を下ろした体温が、肩のすぐそばにある。
触れてはいない。それでも分かる距離だった。
首筋の紋章が、とく、と脈打つ。
セルガの鼓動と、同じリズムで。
俺は目を閉じた。
それだけで、十分だった。
ご一読いただき、ありがとうございます。
完結まで走り抜けられるよう、一話一話大切に更新してまいります。
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