第42話 綻びを溶かす、街の温度
シエルが幽閉されてから、三日が経った。
魔王城の最深部でシエルが絶望の淵に沈む一方で、俺の中ではあの日を境に目に見えない綻びが生じ始めていた。
セルガたちに囲まれた穏やかな日々で少しずつ埋まっていたはずの心の欠落が、かつての主の気配を纏ったシエルの登場によって再び鋭い形を取り戻そうとしている。
だが、――綻びは俺の内面だけではなかった。
「……おはようございます、コノエ様」
廊下ですれ違った兵士が、不自然なほど深く頭を下げる。
以前の彼らは俺を『陛下が溺愛している賓客』として、親しみと好奇心の混じった目で見ていた。
だが今は違う。その視線の裏には隠しきれない畏怖と、耐えがたいほどの『同情』が透けて見えた。
広場でのシエルの絶叫。あれを聞いた者たちには、もう隠し通せない。
俺がただの異邦人ではなく人間に使い潰され、呪いを刻まれた『元英雄にして奴隷』であるという事実が、城内に音もなく広がっていた。
「コノエ様……。生地が、かなり焦げついてしまっています。魔力が……」
仕事場でリリィが、おずおずと声をかける。
新しいお菓子に挑戦しようと意気込んでいた試作品は、見る影もなく炭化していた。
不安定な魔力がオーブンの熱を暴走させた結果だった。
「……悪い。少し、考え事をしていた」
言い訳を口にしながら、俺は内心で怯えていた。
真実を知った彼らが、俺を壊れ物のように扱うのではないかと。
だが、リリィはいつも以上に力強い手つきで焦げた天板を奪い取った。
「考え事なら、将来のことだけにしてください!失敗した分は私が片付けますから、コノエ様は次の準備を!」
表面上は何一つ変わっていない。
いや、知った上で、あえてこれまで以上に騒々しく接してくれているのが分かった。
「主、一度手を止めましょう。今の貴方は、過去の残滓を振り払おうとするあまり、ご自身の魔力に呑み込まれかけています」
ハルクもまた、静かに俺の肩に手を置いた。
彼も真実を知ったはずだ。だがその瞳にあるのは同情ではなく主を二度と何者にも渡さないという、より深く静かな守護の意志だった。
二人の変わらぬ態度に救われながらも、俺の心臓はまだ見えない鎖の感触に震えている。
その時、隠し扉が前触れもなく開いた。
「コノエ。出かけるぞ」
セルガは俺の覇気のない顔と、無残に焼けたクッキーを一瞥すると、有無を言わさぬ口調で告げた。
「……どこに」
「城下だ。一日中この部屋に籠ってもんもんとしてても仕方ないだろ。……ナツカ、手配は済んでいるな」
背後からひらひらと手を振りながら、ナツカが躍り出た。
「ばっちりだぜ。……ほらコノエ、さっさと着替えて来い。そのガチガチに固まった魔力、外の空気に当てて霧散させようぜ。見てるこっちの肩まで凝ってくるからな」
余計なことを考える暇を奪おうとするような、屈託のない明るさ。
その言葉に背を押されるようにして、俺は初めて城下町へ足を運ぶことになった。
◇
馬車の窓から魔族領の街並みを眺める。
城から見ることはあるが、こうして近くで見るのは初めてだった。
城門を抜けてしばらく進むと多様な魔族たちが笑い合い、露店で晩飯の材料を求めて行き交う、そんな生活の熱量に溢れた光景が広がっていた。
「……賑やかなんだな」
ぽつりと、素直な感想がこぼれた。だが驚いたのは、街の中心部で馬車の扉が開いた後だ。
てっきり魔具か魔法でも使って変装するのかと思っていたが、予想に反してセルガは何の変装もせず堂々とその巨躯を晒して外へ踏み出した。
「……セルガ、いいのか。そんな普通に歩いて……襲われたりしないのか」
人間の国では、王がこれほど無防備に民衆に混じるなどあり得なかった。
だが俺の心配をよそに、セルガは鼻で笑った。
「誰が俺を襲うんだよ。この街で俺の顔を知らぬ奴などいねぇよ」
その言葉通り、俺たちに気づいた領民たちが次々と声を上げてくる。
だが、それは俺が想像していたような『平伏』や『恐怖』によるものではなかった。
「おっ、陛下! お忍びでお出かけかい?」
「隣にいるのは……噂の異邦人の兄ちゃんか?城下に来るなんて初めてだろ、歓迎するぜ!」
露店で野菜を並べていた大男の魔族が、親しげに手を振ってくる。
俺は思わず身を強張らせた。
もし城の兵士たちから噂が漏れているなら気味悪がって避けるか、腫れ物を扱うような目を向けられるに違いないと思っていたからだ。
だが男の隣にいる年配の魔族が、籠いっぱいの木の実を笑いながら押し付けてきた。
「アンタ、人間に酷い目に遭わされたんだってね。まったく、あっちの連中は相変わらず見る目がないよ!ほら、これ持ってきな。食って元気出しな!」
俺は立ち尽くした。
名前すら知らないはずの彼らも、なんとなく察しているのだ。
俺が人間に道具のように扱われていた、流れ者なのだと。
それなのに、彼らの瞳にあるのは湿っぽい同情ではなかった。
「大変だったね、旨いもん食って忘れなよ」という、あまりに単純で底抜けに明るい親愛だった。
「……いいのか。俺は、人間たちの……」
「兄ちゃん、ここは魔王領だぜ?過去なんてのは、昨日食った飯の残りカスみたいなもんだ。そんなもん後生大事に抱えてないで、ほら、これ食いな!」
大男がガハハと笑い、俺の背中を強く叩く。
その無骨な衝撃に、胸の奥で固まっていた澱が面白いほど呆気なく崩れていった。
王が威厳を示し、民がそれを敬いながらも恐れない。
これがセルガの作った『国』の在り方なのだと初めて肌で理解した。
ナツカも横で楽しげに笑いながら、もらった実を勝手に口へ放り込んでいる。
「ほら、ここの連中は、お前がどこの誰かなんて興味ねーんだよ。今のお前が楽しければそれでいい。少しは毒気が抜けたか?」
俺の気持ちを解そうとナツカが木の実を頬張りながら笑う。
隣ではセルガも不敵に笑い、露店で買ったばかりの熱々の串焼きを一本、俺に突き出した。
「食いな。余計なことは考えなくていいから」
「……ああ。……美味いな、これ」
一口噛みしめると肉の脂が温かく口の中に、そして胸の内に深く深く広がっていった。
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