第41話 白銀の絶望と、黄金の慈悲
シエルは頭を抱え泥の中に顔を埋めるようにして叫んだ。信じてきた十年間が、足元から音を立てて崩れていく。
英雄の気高い最期を父と共に称えていた裏で、当の父――レナトゥリア国王の手によってその首には家畜以下の鎖がかけられていた。
救うべき英雄に呪いを刻み、道具として使い潰していたのは他でもない、自分たちが心酔していた『正義』の側だった。
その事実は清廉を地で行く王子にとって、死よりも残酷な毒だった。
シエルが地面を掻き毟り、喉が裂けるほどの嗚咽を漏らす。
その背中は、かつて戦場を駆けていた少年の面影を微塵も残していない。
「……う、……くっ……」
その時、俺の首筋に鋭い熱が走った。
シエルの放つ『救いたい』という歪んだ祈りを含んだ魔力が、術式の底に眠る隷属の残滓を刺激したのだ。
かつての主の気配を感知し、肉を内側から焼こうとする呪いの拍動。
だけど、痛みは一瞬で消えていく。
《生存進化》が働き神経を鈍らせ、痛みをただの情報へと変換していく。
かつての研究室の地獄のような実験の日々に比べれば、この程度の疼きは眉間に皺を寄せるだけで済む。
だが慣れるべきでないことに慣れてしまった、という苦さだけが喉の奥にじくりと残った。
「コノエ!? おい、大丈夫か!?」
セルガが俺の異変に気づき、その大きな手で肩を強く抱き寄せた。
俺は小さく息を吐き、乱れようとする鼓動を抑え込む。
「……大丈夫だ、セルガ。……慣れてる」
その一言が何よりも残酷に響いたのかもしれない。
セルガの腕にわずかに力が籠もった。
何かを言いかけて、それを呑み込んだのが分かった。
代わりに金色の瞳に静かな、だが深い怒りを宿らせたまま、泥にまみれたシエルを見据える。
「見ろ、王子。お前が魔力を高めてこいつに縋ろうとするほど、その首の鎖はお前を『主』と認識して、こいつの肉を焼こうとする。……お前が向けているその善意が今、こいつを苦しめているんだ。理解したか?」
「そん、な……私は、ただ、助けたいだけで……っ、コノエ様を、元の場所に……っ」
シエルが震える目で俺を見る。彼の魔眼には、俺の首元で蠢く黒い魔力――かつての主に応えようとする呪いの残滓が映っているはずだ。
救いたいと願うほどに相手の鎖を締めてしまう。
その矛盾にシエルの心が音を立てて折れた。
「……コノエ様、申し訳ありません……っ、私は、私は……!」
シエルは泥の中に額を擦り付け、言葉にならない謝罪を繰り返した。
父の裏切り、王国の非道。そして自分の無知が、愛する英雄に与え続けてきたのは安らぎではなく逃げ場のない苦痛だったという事実。
積み重なった真実が、王子の誇りを真っ黒に塗り潰していく。
俺はその背中を、ただ黙って見ていた。
怒りは、ある。消えたわけじゃない。
十年間都合よく英雄を消費し続けた王国への怒りは、今もくすぶっている。
だが、シエルに向けて何かを言う気にはなれなかった。
彼は知らなかった。本当に、何も知らなかったのだ。
知らされないまま「英雄の死」を信じ込まされ、その悲しみだけを胸に抱えてここまで来た。
その事実だけは否定できない。
「……陛下。これ以上はコノエ様のお体に差し支えます」
いつの間にか傍に来ていたエルミナの静かな声に、セルガが短く頷いた。
「わかっている。……ライゼル、この王子を城の深部へ留め置け。レナトゥリア国王との交渉が始まるまで、己の無知が何を招いたか精々噛み締めてもらう」
「御意」
セルガの命令とともにナツカとハルクが動き、シエルの両脇を固める。
シエルはもはや抵抗しなかった。
泥にまみれた顔を歪め、ただ嗚咽を漏らしながら引きずられるように広場を連れ去られていく。
「コノエ……様……っ、あ、ああああ……っ!」
遠ざかるシエルの叫び。それに比例して俺の首を焼いていた熱がスッと引いていった。
かつての主の気配が遮断されたことで、紋章は再びセルガの加護という穏やかな支配の下へと沈んでいく。
広場に、静寂が戻る。
残されたのは、俺とセルガと、遠巻きに立ち尽くす兵士たちだけだ。
誰も何も言わなかった。言えなかったのかもしれない。
「……コノエ。もう大丈夫だ」
セルガが俺の首筋を大きな手でそっと撫でた。
その掌から伝わる冷たい魔力が、残っていたわずかな痺れを吸い出してくれるようだった。
「……ああ。もう、何も感じない」
俺は熱の引いた喉を指でなぞった。
人間たちがかつて俺に与えたのは、痛覚さえも「進化の材料」として使い切る非道な適応だった。
俺は確かに生き延びた。だがその代わりに、痛みへの感受性をどこかに置いてきてしまったのかもしれない。
それが失ったものなのか、それとも身を守るために必要だったものなのか、今の俺にはまだ答えが出せなかった。
泥の中に沈んだシエルの慟哭は、城壁の向こうへと消えた。
首筋に刻まれた感触は、消えない。
上書きされた紋章が、ドクンと、セルガの鼓動と同じリズムで静かに脈打った。
俺はセルガの胸に額を押し当て、深い呼吸を一つ吐いた。
シエルがどんな後悔を抱えて監獄の夜を過ごすのか。
それを考えるだけの余裕が今の俺にどれほど残っているのか、自分でもわからなかった。
ただ、首筋に触れているこの大きな手の温もりだけが、今の俺を繋ぎ止めている唯一の確かなものだった。
セルガは何も言わなかった。ただ、その手をゆっくりと俺の背中へ回した。
それだけで、十分だった。
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