第38.5話 汚れなき英雄幻想(シエル視点)
視界を埋め尽くすのは、どす黒い瘴気の渦と絶え間なく襲い来る魔獣の群れ。
愛馬はとうの昔に力尽き、白銀の甲冑は泥と返り血で汚れ、第一王子の威厳など微塵も残っていない。
それでも、シエルの足が止まることはなかった。
「待っていてください、コノエ様……。今、私が助けに参ります」
シエルの瞳は、極限状態ゆえの異様な輝きを放っていた。
人間領においてコノエは『死の森』で殉職した悲劇の英雄として処理されている。
国境付近の調査に赴き魔獣の群れに襲われ果てた――それが王国の公式発表であり、清廉な王子であるシエルが信じていた『事実』だった。
――あれほどの御方が、なぜこんなに呆気なく。
その喪失感に打ちひしがれていたシエルだったが、決して諦めはしなかった。
独自の調査でコノエが生きていること、そしてあろうことか魔族の城に囚われているという『真実』を掴み取った。
――不可侵条約?そんなものが、あの御方の命より重いわけがない。
シエルにとって、コノエは単なる『英雄』ではなかった。
地獄のような戦場で常に先頭に立ち、傷つきながらも皆を守り続けた、唯一無二の存在。
その彼が死を偽装され魔族に攫われて利用されている。
その考えだけでシエルの世界は憎悪で塗りつぶされた。
「魔族の甘言に惑わされているに違いない。あるいは卑劣な術で操られているのか……。ああ、可哀想なコノエ様」
シエルが護衛も付けず単独で国境を越えたのには理由があった。
本来、第一王子の移動には精鋭の近衛騎士団が付き従うのが通例だ。
しかしこの任務を公にすれば、公式には死んだはずの人間を巡って条約を破ることになり、王国全体が魔族との全面戦争に突入しかねない。
父王や重臣たちは、死んだはずの男のために国を危険に晒すことを断固として拒んだ。
『シエル、忘れなさい。あの男は死の森で名誉ある戦死を遂げたのだ。たとえ生きていたとしても、魔族の手に落ちた者を救えば条約違反の火種を招くだけだ』
その言葉を聞いた瞬間、シエルの中で何かが弾けた。
――火種を招くだけ?世界で最も価値のある御方を、死んだことにして見捨て、今度は忘却しろというのか。
「――ならば、私一人で十分だ」
彼は夜陰に乗じ、自分に付き従おうとする側近たちさえも振り切り、ただ一振りの聖剣を手に城を飛び出した。
国を背負う王子としての責任よりも、英雄を救い出したいという個人的な熱狂が勝ったのだ。
自分がここで死ねば王国は次期後継者を失うだろう。だがシエルにとってそんなことは些末な問題だった。
口から漏れる独り言はすでに正常な思考を逸脱していた。
シエルが見ているのは、救いを求める悲劇の英雄像だ。
今のコノエが手にしているかもしれない『平穏』など、彼の頭の中には一欠片も存在しない。
彼の中の『英雄コノエ』は常に孤独で、清廉で、そして自分によって救い出されなければならない存在として固定されていた。
「ははっ、また邪魔をするのですか。下劣な魔獣め!」
剣を振るうたびに肩の傷が激痛を訴える。
だがその痛みさえも、英雄と同じ苦しみを分かち合っているという甘美な陶酔感へと変換される。
彼を突き動かしているのは、純粋すぎるがゆえに毒となった崇拝心だった。
――コノエ様は、汚されてしまった。
魔王の毒気に当てられ、本来の輝きを失わされているに違いない。
ならば、私がすべてを浄化してあげなければならない。
たとえコノエ様が「ここにいたい」と拒んだとしても、それは魔族の呪いのせいに決まっている。
無理やりにでも連れ戻し、再び王国の象徴として私だけの英雄として取り戻すのだ。
かつて背中を追いかけた少年の憧れは、十年という月日を経て対象を縛り付けるための狂気へと変質していた。
目の前に広がる魔の森の深淵。その先にそびえ立つ魔王城の影を見つめ、シエルは歓喜に震える唇を歪める。
「もう少しです……。コノエ様、あなたをあんな檻から連れ戻し、私が再び『英雄』へと戻してあげますから」
最短距離を迷いなく直進する。
条約を破り国家を危うくし、己の身を滅ぼしかねないその暴走を、彼は『至高の忠義』だと信じて疑わない。
コノエがようやく見つけたひだまりのような居場所、を土足で踏み荒らそうとする熱狂はすぐそこまで迫っていた。
森の木々がざわめき、凶悪な魔圧が彼を押し潰そうとする。
だが、シエルは笑っていた。
「見ていてください、コノエ様。今度は私が、あなたを救う騎士になる番です」
その歪んだ正義感は、救いという名の侵略だった。
シエルの心にあるのは愛ではなく、『所有』に近い執着。
彼は気づいていない。自分が救おうとしている『英雄』が今、どれほど穏やかな時間の中で笑っているか。
そしてそれを知った時、この熱狂がどのような結末を招くのか――まだ、誰も知る由はなかった。
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