第38話 安息のひととき、因縁の足音
『王妃の間』での生活が”当たり前”になってから、はや一か月が過ぎた。
豪華な装飾に囲まれたこの場所も、今では俺の心地よい作業場に変わりつつある。
かつては王妃の間の変わり果てた姿を嘆いていたライゼルも、最近ではすっかり毒気を抜かれたらしい。
小言を言うこともなく書類を抱えたままふらりとこの『作業場』を訪れ、当然のような顔をして椅子に座るようになっていた。
午前中、俺はハルクと共に新しい魔力付与の安定性を確かめていた。
ハルクは護衛の範疇をとうに超え、今では俺が求める火加減や攪拌の速度を、言葉を交わさずとも魔力感知で完璧にサポートするようになっている。
「主、次の試作には微量の『硬化』の魔力を。衝撃に強く、かつ魔力の含有量を損なわないための補強……いわば『装甲』です。保存食としての完成度が格段に上がると思います」
「お前の発想には驚かされるな。……そうだな、是非試してみよう」
俺たちが料理の話をする傍ら、リリィは調理器具を新品と見間違うほど磨き上げている。
彼女は未だ俺を『次期王妃』として磨き上げる志を忘れていないが、最近では床で寝ることに対しても「せめて毛布を二枚にしましょう」と、現実的な妥協案を出すようになっていた。
そんな穏やかな昼下がり。
城内を巡回していたナツカが、珍しく険しい表情で部屋を訪れた。
「コノエ、ちょっといいかな。……陛下とライゼルが呼んでる」
その一言で部屋の空気が一瞬で引き締まる。
ハルクが即座に俺の斜め前に立ち、リリィが静かに作業の手を止めた。
俺は手に持っていた調理器具を置き、腰に巻いていた白銀のエプロンを解いた。
「……リリィ、これ預かっててくれ」
「……はい、コノエ様。お気をつけて」
リリィの手へエプロンを託し、俺は軽く肩を回した。
作業着を脱ぎ捨て身軽になったはずなのに、心臓の奥がじわじわと重みを増していくのを感じる。
ナツカの背を追い、俺はハルクを連れて執務室へと向かった。
◇
執務室には既にセルガとライゼルの姿があった。
ライゼルの手元には、人間領側の不穏な動きを示す報告書が広げられている。
「……来たか、コノエ」
セルガが振り返る。その金色の瞳には、友人としての穏やかさとは違う、魔王としての鋭い色が混じっていた。
「ライゼルから報告があった。人間領の国境付近で、異常な動きがある」
「人間領……?」
声が、自分でも驚くほど震えた。
その単語を聞いただけで背筋を氷の塊が撫でたような感覚に陥る。
此処数日、セルガ達やハルク、リリィに囲まれて過ごすうちに、もうあの地獄で負った傷は癒えたのだと思い込んでいた。
けれど、魂に刻み込まれた恐怖の記憶は、何一つ忘れてはいなかった。
十年間呪縛という鎖に繋がれ、戦う道具として使い潰された日々。
死ぬことさえ許されず、戦場へ放り込まれ続けた記憶がどろりと脳裏に蘇る。
「……コノエ?」
セルガが俺のただならぬ様子に気づいて名を呼ぶ。
だが、その声すら遠くに感じた。
『死の森』に捨てたのは、もう必要ないと判断したからのはず。
なのに、なぜ今さら。……まだ何か利用価値があるとでも――。
「落ち着けよ、コノエ。大規模な進軍が行われてるわけじゃないんだ。建前上は、相互不可侵条約が健在だからな」
傍らにいたナツカが努めて明るい、だがどこか沈んだ声で俺を宥めた。
その言葉に、少しだけ呼吸が楽になる。
そうだ、条約がある以上、公然と俺を連れ戻しに来ることはできないはずだ。
だが、その安堵を切り裂くようにライゼルの冷徹な声が響いた。
「奴らは都合のいい時だけ『条約』を盾にする。……もっとも、お前をこの地へ捨て去った時点で、水面下でその約束を自ら踏みにじっているのだがな。不可侵の地へ死に体の『戦力』を叩き込むなど、宣戦布告と変わらん行為だ」
ライゼルの指摘は正論だった。
あいつらは俺を捨てた瞬間に、平和の約束なんてとうに捨てていたんだ。
「……だが、だからこそ今回の件は、その『建前』すら投げ打つほどに異常なのだ」
ライゼルが手元の魔導端末を操作し、国境付近の魔力波形を映し出す。
「軍による侵攻ではない。たった一人の人間が、条約を公然と無視して魔の森を強行突破し、この城に向かってきている。コノエも知っている通り通常、一人で踏み込むような場所ではありませんが……その人物は最短距離を、迷いなく直進しているようです」
たった一人。条約と死の森を無視してまで。
セルガは険しい顔で端末の数値を見つめている。
まだ、それが誰であるかまでは掴めていないようだった。
自分のようにまた誰かが召喚され道具にされているのだろうかと一瞬考えが過ったが、それを打ち消すように《生存進化》が警鐘を鳴らし、記憶の隅に一人の男が浮かんでくる。
かつて血生臭い戦場で、ボロボロの俺を『英雄』と呼び、キラキラとした瞳で追いかけてきたある少年。
「コノエ、落ち着け。ここにいる限り、お前を連れ去らせたりしねぇよ」
セルガが歩み寄り、俺の肩を強く掴んだ。
その確かな体温にかろうじて意識が現実へ繋ぎ止められる。
俺は震える指先を隠すように、エプロンがあったはずの空の腰元を無意識に強く握りしめていた。
「……心当たりがあるのか?」
セルガの静かな問いに、俺は乾いた唇を動かし、かろうじて言葉を絞り出す。
「……たぶんだけど、レナトゥリア王国の第一王子……シエル殿下、かもしれない」
その名を口にした瞬間、首に刻まれた隷属紋章が引き千切られるような痛みと共に冷たく脈打った気がした。
穏やかだった日常の幕が、一陣の風に煽られて揺れ始める。
捨てられたはずの過去が、逃れられない因縁となってもうすぐそこまで迫っていた。
ご一読いただき、ありがとうございます。
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