第29話 名前のない時間、木陰の独白
麻痺茨の胞子は、想像以上にライゼルの体を蝕んでいたらしい。
魔力を練れば分解を早めることもできたはずだが、今の彼にはその余力すら残っていないようだった。
ライゼルは巨木の根元に腰を下ろし、苦痛と――そして守るべき相手に守られたというわずかな屈辱に顔を歪めていた。
「……申し訳ありません。護衛でありながら、このような体たらくで……」
「気にしないでください。俺が勝手に走り回って、ライゼルさんを振り回したせいですから」
俺は努めて明るい声を出し、彼の隣に腰を下ろした。
胞子の影響が残る彼を刺激しないよう、触れない程度の距離を意識して保ったまま。
「……それに。ライゼルさん、あまり眠れていなかったんじゃないですか?」
図星だったのだろう。眼鏡の奥の瞳が、ほんのわずかに揺れるのが分かった。
潜んでいた疲労が、麻痺によって抑えが効かなくなった隙間から溢れ出している。
「……コノエ様。私は……」
言いかけて、言葉が途切れる。
風に揺れた葉擦れの音だけが、静かな森に吸い込まれていった。
しばらくの沈黙のあと、ライゼルが絞り出すように声を漏らした。
それは普段の落ち着いた声とは似ても似つかない――掠れた、震える声だった。
「……怖いんだ」
「……え?」
敬語の抜け落ちた一言に、思わず聞き返す。
彼は震える手で眼鏡を外し、両手で顔を覆った。
「自分が、何者なのか分からなくなっていく。五百年……この国で積み上げてきた『ライゼル』という自分が……貴方に触れるたびに、壊れていく気がするんだ」
それはもう、宰相の声ではない。
遠い過去の淵から響いてくるような、迷子の子供の独白だった。
「知らないはずの光景が、覚えのないはずの感情が……内側から俺を侵食してくる。この五百年を否定したくはない……! だが、思い出せないはずの『俺』が、ずっと内側で泣いている気がしてならないんだ……っ」
あまりにも、剥き出しの弱音だった。
俺は慎重に言葉を選んだ。
かつての親友としてではなく、今、目の前で苦しんでいる『ライゼル』という男のために。
「ライゼルさん。……俺にとって貴方は、この城で居場所を作る"きっかけ"をくれた人です。たとえ、それがセルガの命令に従った結果だったとしても」
彼がゆっくりと顔を上げる。
「俺はその『職務を全うする宰相』としての貴方に救われました。本当に感謝しています。……だから、仮にいつか禮迩の記憶を思い出すことがあったとしても――それも含めて、貴方は"ライゼルさん"なんだと、俺は思います」
返事は、すぐには返ってこなかった。伏せられた睫毛が、微かに震える。
「セルガやナツカだって……完全に前世の二人ってわけじゃない。性格も立場も、やっぱり少しずつ違う。過去の誰かじゃなくて、今、俺の前にいるのはライゼルさんなんだから」
それは彼に向けた言葉であると同時に、自分自身へのけじめでもあった。
(……ごめんな、禮迩)
心の中でその名を呼ぶだけで、胸の奥がひくりと軋む。
否定したいわけじゃない。
けれど――過去の幻影だけを優先するのは、俺の手を握り返してくれたこの人を裏切ることになる。
ライゼルは深く息を吐き、やがて憑き物が落ちたように空を仰いだ。
「……そうか。……お前にそう言われると、否定されている気がしないのは……癪だな」
わずかに、皮肉めいた調子が戻る。
だが口調は砕けたままで、眼鏡をかけ直す動作にもどこか柔らかさが混じっていた。
過去を知る者は彼に『禮迩』の面影を求め、今しか知らぬ者は『冷徹な宰相』の仮面を求める。
けれどこの森の木陰でだけは――そのどちらでもない、何者でもない二人としての時間が確かに流れていた。
◇
森を離れ城へと戻る道中。馬車の中は静かだった。
きっと互いに役割を取り戻すために、必要な時間だったのだろう。
揺れに身を任せていると、向かいに座るライゼルが窓の外を見たまま蚊の鳴くような声で言った。
「……コノエ様」
「はい」
「……帰ったら、また、例の甘味を頂けますか。……前回は一つしか確認できていないので、魔族領における士気向上への効果を測るにはデータが不足しています」
夕日に照らされているせいだろうか。
横を向いたままの彼の耳の付け根まで、赤く染まっている。
「……不確定要素を放置するのは宰相として看過できません。継続的な検証が必要なのです」
必死にひねり出された『士気向上のためのデータ』という建前に、思わず吹き出しそうになる。
あの日、厨房を去り際に『悪くない』と言った彼の本音を思い出した。
「分かりました。最高に精度の高い検証用プリン、用意しておきますね」
「……っ、笑わないでください。私は至って真面目に国益の話をしているのです」
わざとらしく咳払いをして姿勢を正すと、ライゼルは俺を正面から見据えてぽつりと付け加えた。
「……それから。今後、私に対しても、無理に敬語を使う必要はありません」
「え、でも……」
「セルガ……陛下に対して使っていないのに私に使うのは、論理的に筋が通りません。宰相として、看過できません」
眼鏡を押し上げる指が、わずかに震えている。
難しい言葉を盾にしながらも、必死にこちらとの距離を縮めようとしてくれているのが分かって、胸の奥が温かくなった。
「……いいの? ライゼル」
呼び捨てにすると、彼は一瞬だけ弾かれたように肩を跳ねさせた。
それから、何かを噛み砕くように静かに頷く。
「ええ。構いません。……もっとも、陛下への敬語は、立場上、できれば続けていただきたいと切に願っておりますが」
「それは……善処するよ」
馬車の走る音が、先ほどよりも軽やかに響く。
この数時間で、俺たちのあいだの境界線は――確かに、少しづつ溶けていた。
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