第28話 怪物の瞳、人間の体温
城の北側に広がる森は、歩みを進めるごとに『未知』が顔を出す――そんな場所だった。
外界の光を拒むように入り組んだ巨木の枝葉。
その隙間から漏れるわずかな光が、湿った空気に反射して見たこともない色彩を足元に描いている。
「……すごいな。見たこともない植物ばっかりだ」
思わず独り言が漏れる。
淡く発光しながら胞子を振りまくキノコや、獲物の体温を察知してゆっくりとのたうつ蔦。
この魔族領に来てから、俺の《生存進化》は戦うためだけでなく、生きるための"食"に関する方向へも進化した。
だがそれは便利なだけとは言えない。
俺の鑑定眼は『食材』として認識したものにしか反応せず、しかも一度口にしてみないと情報を引き出せない。
毒か薬か、あるいは新たな甘味の源か。
それを確かめるには、自分の体を実験台にする以外に方法がなかった。もっとも、俺にとってそれはたいして意味のないことではあるのだが。
たとえ猛毒だと分かっても、口に含んだ瞬間に体内が即座に分解して無効化してしまう。
だからこの鑑定眼は、命を守るためではなく自分以外の『誰かのため』に使う。
「これは……なんだろう」
俺は足元に転がっていた鈍い銀色の光沢を放つ実を一つ取った。
表面は金属のように硬そうに見えるが、指先に力を込めると熟した果実特有のしなりが返ってくる。
俺は迷うことなく、それを口に放り込んだ。
(……渋い。それに、ひどく金属臭がする。でも、見た目と味に反して果肉は驚くほど柔らかいな)
舌の上で転がしながらじっくりと味わって喉の奥へ流し込むと、俺の意志とは無関係に《生存進化》が即座に反応した。
未知の成分が舌に触れた瞬間に危険なものが分解されていく。そして頭の中に情報の断片が弾き出される。
(……なるほど。熱を加えることで不純物が揮発して、奥にある甘みだけを取り出せるタイプか。ただし――生の状態だと、神経系を焼き切るほどの強力な麻痺毒が含まれてる)
鑑定結果は『神経毒:強』
だが俺の体内ではすでに分解が終わっていて、毒はすでに無害な栄養素に変わっていた。
本来、生き物が毒を判別するのは死を避けるための警告のはずだがそれが来る前に『死』そのものを無効化してしまう。
「わかったところで、意味がないんだよな」
思わず自嘲気味な呟きが漏れる。
この性質が、自分がまともな生き物から遠ざかっていることを改めて突きつけてくる。
「……貴方という人は。毒性も分からないものを、よくもそう無造作に口にできるものだ」
背後から呆れを含んだライゼルの声が降ってきた。
振り返ると眉間に深い皺を刻み、信じがたいものを見るような目でこちらを見ている。
「大丈夫ですよ。実際に食べてみないと詳細は分からないし、道中でも言ったけど俺の身体は毒を口にしても勝手に分解されるから」
何でもないことのように返したが、ライゼルはさらに深く眉を寄せた。
その瞳の奥に一瞬だけ、言葉にできないほど痛ましいものを見るような色が混じった。
それを、俺は見なかったふりをして再び歩き出した。
(……ライゼルさん、やっぱり顔色がずっと悪いな)
そもそも気になっていたのは、自分の体よりも彼の様子だった。
俺を護衛しろという命令のせいか、それとも数日来の寝不足がたたっているのか。
眼鏡の奥に沈む隈の色を気にかけながらも、俺の五感は鋭く周囲へと張り巡らされていた。
戦場で培われた感覚は、俺の意志とは無関係に常に最悪の事態を想定して動き続けている。
だからその異変には即座に気づいた。
背後を歩いていたライゼルの足取りが、ほんのわずかに重心を外した事に。
「あ――」
湿った音が、彼の足元で響いた。不運にも踏み抜いたのは、土に擬態して獲物を待つ『麻痺茨』の幼体だった。
踏まれた衝撃で茨が破裂し、鮮やかな紫色の胞子が濃い霧となってライゼルの全身を包み込む。
さらに、木の上から音もなく巨大な黒い影が滑り落ちてきた。
シャドウ・パンサーだ。
魔族ですら警戒する森の暗殺者。
動けない獲物の喉元を目指して、牙を剥こうとしていた。
――まずい。
脳がそれを認識するより早く、意識が強制的に「戦場」へと切り替わった。
思考は遮断され、肉体のリミッターが外れる。
◇
――side:ライゼル
視界が不規則に揺れ、全身の力が膝を押し流した。
紫色の胞子が肺を満たした瞬間、体中の神経が命令を拒み始める。
注意力を欠いた、あまりに無様な失態だ。
瞳に焼き付いたのは、頭上から迫るシャドウ・パンサーの影。
逃れられない予感が、冷たく肌を撫でた。
護衛対象を守るどころか、その目の前で果てるのか。
宰相として、王の臣下として、これ以上の恥はない。
しかし動かない身体に諦めとともに、静かに目を閉じた。
――だが。
いつまで待っても、肉を裂く衝撃も痛みもやってこなかった。
代わりに聞こえたのは、何かがあっけなく断ち切られる、冷えた音だけ。
恐る恐る重い瞼を開ける。
そこに立っていたのは、先ほどまで毒物さえも平然と口に放り込んでいた、あの穏やかな青年ではなかった。
感情のすべてが削ぎ落とされた、深い淵のような瞳。
そこには怒りも、焦りも、高揚感すら存在しない。
「……コノエ……様?」
思わず漏れた俺の掠れた声にも彼は反応しない。
武器すら抜かず、指先に練り上げた魔力を集め、剥き出しの手を一度振るっただけ。
シャドウ・パンサーだったものは空中で綺麗に真っ二つになり、地に落ちて動かなくなっていた。
返り血がコノエの頬に一筋流れたが、彼はそれを拭うこともしない。
生気のない瞳で、足元を見下ろしている。
その佇まいにあるのは、勝利の喜びではない。
ただ『障害を排除した』というだけの、無機質な静けさ。
沈黙こそが、この男が十年の歳月をかけて磨き上げてきた『死』そのものだった。
(……これが。……人間、なのか)
背筋を冷たいものが走り、麻痺した指先とは別の理由で全身が震え始める。
だが、その暗い気配は次の瞬間には陽光に照らされた霧のように消え去った。
「ライゼルさん!大丈夫ですか!?酷い隈だと思ってたけど、やっぱり無理してたんじゃないか」
先ほどまでの冷たい気配が嘘であったかのように、コノエは慌てて俺の傍らに膝をついた。
命に別状がないと分かった瞬間に「はぁ……」と大きなため息を吐いて、困ったように眉を下げながら俺の顔を覗き込んでくる。
「とりあえず、安全なとこ行きましょう。……立てますか?」
そう言って、躊躇いなく右手を差し出してきた。
「………………」
俺はその手をすぐには取れなかった。
「……貴方は……」
震える喉から、掠れた声がこぼれる。
「……貴方は、どれほどの地獄を。どれほどの死を積み上げて、ここに……。……なぜ、そんな風に笑えるのですか」
我ながら、あまりに不躾な問いだとは分かっていた。
差し出されたコノエの手が、ぴくりと空中で止まる。
彼は一瞬、瞳を揺らした。
だがすぐに、その目に穏やかな光を宿した。
「……あぁ、良かった。……俺、ちゃんと笑えてましたか」
安堵したような、その響き。
「……俺がこうやって笑えるようになったのは、セルガやナツカ……それに魔族領の皆のおかげだよ。一人じゃ、自分の顔がどんな形をしてるかさえ、忘れかけてたから」
向けられたのは、この世のものとは思えないほど透明な笑顔だった。
――なのに。
その笑顔を、俺は知っている。
夢の中で、朧げな光の中で。
俺に向かって、ただひたすらに温かく笑いかけていた影。
「……」
今度は拒まず、俺はその手を握りしめた。
全身の力が抜けて崩れ落ちそうな自分を、必死に繋ぎ止めるように。
掌から伝わってきた体温は、驚くほど温かかった。




