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第30話 悪夢を塗り潰す、嵐のような男たち


 ――夢を見た。


 この城に来てから、ときおり見るあの夢。


 現代日本のような場所で畝峨(セガ)が、木柄(オレ)を探し続ける夢。

 誰かに諦めろと言われても、ひたすらに探し続ける彼の背中を俺はただ見ていることしかできない。


「ごめんな」


 置き去りにしてしまった彼に、心の中で謝り続けることしか出来ない夢。だが今夜の夢は、その柔らかな切なさを塗りつぶすように変質していった。


 言葉にできない違和感が、じわじわと足元から這い上がってくる。


 見慣れたはずの景色の輪郭が曖昧になり、雑踏の音が遠くで不快に歪む。

 屋上のフェンスが、教室の机が、砂嵐に晒された古い映像のようにざらりと音を立てて崩れ落ちた。

 視界が真っ暗な奈落へと反転する。


 鼻を突くのは懐かしいはずの潮風ではなく、咽せるような鉄と血の匂い。


 背中に触れるのは、温かい陽だまりではなく、凍てつくような石造りの床。

 そこは――俺の十年間を塗り潰した、あの薄暗い研究室だった。


『――次はこれだ。逃げられると思うな、これは“命令”だ』


 鼓膜を直接震わせたのは、数え切れないほど俺の心を壊してきた白衣の男の掠れた声。


 『命令』――その忌まわしい言葉に反応し、首に刻まれた隷属の呪印が、肌を焼き切るような熱を帯びる。

 次の瞬間、心臓を直接握り潰されるような激痛が、容赦なく全身を駆け抜けた。


 ――思い出してしまった。忘れたはずだったのに。


 いや、この穏やかな日々で幸せな記憶として上書きできていると思い込もうとしていた。

 けれどそれはあまりにも脆い幻想だった。


 叫ぶことも、泣くことも、自ら死を選ぶことすら許されなかったあの地獄のような十年。

 道具として、家畜として、何度も何度も命の灯火を削られ続けた日々。


 感情が戻り始めている今の俺にとって、その記憶は以前のような『無機質な記録』ではなく、生々しい『恐怖』となって襲いかかってくる。


「……や、め……――っ」


 声にならない悲鳴が、喉の奥で虚しく潰れる。

 暗闇の向こうで、無数の影が俺を指差して嘲笑っている。


 今の幸せは、すべて脆い砂上の楼閣に過ぎない。

 お前は所詮、この血塗られた床に転がる『使い捨ての英雄』のままだと。


 逃げ場のない監獄の中で俺は再び、出口のない深い闇へと引きずり戻されていった。


 ◇


 目が覚めた瞬間、自分がひどく消耗しているのが分かった。

 喉は焼け付くように渇き、胸の奥には不快なざらつきが居座っている。


 夢の残滓が、まだ皮膚の内側に冷たく貼り付いているような悍ましい感覚が消えない。


「……」


 起き上がろうとしたが鉛のように重い身体に拒まれ、枕に頭を沈めた。

 《生存進化》によって精神汚染の耐性はあるはずなのに、戻ってきたばかりの心がその速度についていけていない。


 ――夢。


 あの冷たい研究室、逃れられない命令の声。

 呪印が肉を焼くように熱を発する、あの忌々しい感触。

 思い出そうとするだけで、せり上がるような吐き気が込み上げてくる。


 ……だが、これほどまでに『怖い』と感じるのは、俺の感情がちゃんと戻ってきた証拠なのだろう。

 そう思うと自嘲気味な苦笑が微かに漏れた。


「……いいことばかりじゃ、ないな……」


 感情がなければ、あの地獄をただの景色として流せた。

 けれど人間として生きることを選ぶなら、この痛みもまた、俺が引き受けなければならない『自分』の一部なのだ。窓の外は、すでに白々と明るい。


 けれど胃の腑は鉛でも詰まったように重く、腹はまったく空いていなかった。


 ふと、枕元に置いていた小さな瓶が目に入る。

 以前担当医であるエルミナが「心が落ち着かない時に」と持たせてくれた香油だ。


 震える手で蓋を開けると、どこか懐かしくそれでいて力強い魔力の気配を孕んだ香りがふわりと立ち上った。


 胸いっぱいに、その香りを吸い込む。

 ……不思議なほど、自然に呼吸の乱れが整っていく。

 狂ったように打っていた心臓の動悸が、嘘のように静まっていった。


 ――あまりにも、不自然なほどに。


 その“安心感”の正体が、純粋に自分自身の回復力ではないことを予感しながらも。


 今の俺には、その強制的な安らぎに身を委ね、再び目を閉じることしかできなかった。


 ◇


 規則正しいドアのノック音が、沈み込んでいた意識を無理やり引き戻した。

 入室してきたのは執事長のバルハだった。


「おはようございます、コノエ様。……おや、顔色が優れませんね。エルミナ様を呼びましょうか?」


 バルハの穏やかな、けれど鋭い観察眼を含んだ声が響く。

 俺は重い頭を振り、ベッドの端に腰を下ろした。


「大丈夫だよ、ちょっと寝不足なだけ……。ライゼルは?」

「居ますよ。陛下が帰るまでは貴方の護衛ですので」


 バルハの背後から、眼鏡を押し上げる仕草とともにライゼルが姿を現した。

 彼は俺の様子をじっと見つめ、僅かに眉を寄せる。


「その顔色では、本日はどこにも行かず、エルミナが来るまで部屋で休むように言いつけたい所だが」


 淡々とした響きの中に、隠しきれない懸念が混じっている。

 だがこのまま一人で部屋にいれば、またあの闇に呑まれそうな気がして俺は努めて軽く首を振った。


「……いや、それなら今日はライゼルの執務室に行っていいかな? お前も仕事残ってるだろ。静かにしてるから、隣で仕事しなよ」

「それは……まぁ、コノエが良いならば」


 意外そうな顔をしながらも、ライゼルは承諾した。

 バルハが一歩前に出て静かに告げる。


「ではコノエ様、先に朝食にしましょう」

「あー……いや、今日はいいかな。あまり食べられそうになくて」


 胃の奥に残る夢の残滓が、食欲を完全に拒絶していた。

 心配そうに目を細めるバルハを後に、俺はライゼルの執務室へと向かった。


 ◇


 宰相の執務室は、期待通りの静寂だった 。

 インクの匂いと、淡々と書類をめくる音。

 ライゼルは俺をソファに座らせると、自分は机に向かい、時折ペンを走らせる 。


 その規則正しい音が、荒れていた俺の心を少しずつ凪いでいく。

 俺は窓の外を眺めた。澄み渡る空に、穏やかな雲。


 ――だが、その直後。


 胸の奥が、微かにざわついた。

 目を細めてみると遠くの空の彼方に揺れる魔獣の影。

 飛行型――しかも、かなり大型だ。


 だがそれ以上に、魂に刻まれたような強大な魔力を感じ取った 。


「なぁ、ライゼル。陛下たちって、馬車で行ったんだよな」

「……あぁ、そうだが。それが何か?」


 一拍置いた返答。


 ライゼルのペンを動かす手は止まっていないが、怪訝そうな気配が伝わってくる。


「じゃあ、帰りも必然、馬車だよな。戻りは夕刻だって言ってたし」

「基本はそうだ。……まさか、たったの1日で陛下がいなくて寂しいとでも言うつもりか?」


 ほんのわずかに刺のある声音。

 だが、今はそれどころじゃない。


「いや……というか」


 俺は窓の外、急速に巨大化する影を指さした。


「……あれ。セルガとナツカじゃない?」

「は?」


 ライゼルが顔を上げた、その瞬間。

 執務室の窓を、圧倒的な闇が覆った。


 飛龍――ヴァルドレイク。

 大気を引き裂く猛烈な羽ばたきが城塔を震わせ、静寂は一瞬で瓦解した。

ご一読いただき、ありがとうございます。

完結まで走り抜けられるよう、一話一話大切に更新してまいります。

もし少しでも「続きが気になる」と思っていただけたら、ブックマークや下の【☆☆☆☆☆】で応援いただけると、執筆の大きな励みになります!

次回もよろしくお願いいたします。

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