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第25.5話 溶け残った記憶の熱(ライゼル視点)


 自宅に戻った頃には、廊下の灯りが夜の色に沈んでいた。


 執務机の上には書類が積まれたままだ。

 手をつけようとして——その指が止まった。


(……甘味とは、存外)


 自分の口から出た言葉が、思考の隙間に静かに滑り込んでくる。

 無意識に反芻している自分に気づくと同時に、苛立ちが込み上げる。


 厨房を出てからずっとそうだ。

 廊下を歩いていても、兵士たちを叱責していても。

 ――書類に目を通そうとしても。


 あの甘い香りが、どこまでもついてくる気がした。


 ペンを置いて椅子の背に体重をかける。

 今夜はもうこれ以上、頭が働く気がしない。

 珍しいと、どこか他人事のように思いながら立ち上がる。


 ◇


 ベッドに横たわると、思いのほか眠りにはすぐについた。

 夢の中は朧げだった。


 人の輪郭だけがぼんやりと浮かんで、景色も物もどこか滲んでいる。

 見覚えのない場所だった。

 それでも——空気だけは、知っていた。


(……ここは)


 どこだ、と思うより先に声が聞こえた。


『お疲れ』


 輪郭だけの影が、こちらを向いている。

 顔は見えない。ぼんやりとした光の中に溶けている。


 それでも——笑っている、と分かった。


 影が近づくにつれて景色が揺れ、輪郭が滲む。

 だが……声だけは鮮明なままだった。


『頑張ったお前にご褒美』


 俺の目の前に何かをそっと置く気配がした。

 甘い香りが、ゆっくりと鼻をくすぐる。


 口が勝手に開き、自分ではない自分の声が言葉を再生していく。


『プリンじゃないか、やったぜ! あ、でも……これは優勝したら作ってくれるって約束じゃ』


 子供っぽい声だった。

 今の自分とはまるで違う抑揚。


 影は笑った。知っている声よりも幼く、けれど確かな面影を残した声。

 ……それでいて、聞いたこともないほど柔らかな音色だった。


『一位じゃなくたっていいじゃん。過程も十分大事だろ? お前の頑張りはちゃんと俺が見てきたよ、だから俺の中では優勝です、なんてね』


 軽くおどけた様子で影は言う。

 慰めにしてはあまりにも飾らない――それでもそこに、嘘はなかった。


 知らない自分が、器を受け取る。

 その時、何を考えていたのかは分からない。


 ただ目の前の彼が暖かく微笑んでいる気がした。


 図書室でみたものとも、厨房のものとも違う。

 感情の乗らないぎこちない表情や、緊張した硬い声色でもない。とても自然な様子で。


 それが同じ人物のものだとは、にわかには信じがたかった。


 外の音も周囲の輪郭も何もかもが曖昧なまま。

 その温度だけが、妙にはっきりしていた。


 やがて音もなく、静かに景色が崩れていく。

 夢が、終わる。


 ◇


 目が覚めた時、外はまだ暗かった。

 しばらく放心したまま天井を見上げる。


 胸の中に何かが残っている気がした。

 形のない——重さのような。


(……夢か)


 息を吐き出す。いつもならそれだけで済む。

 こんなものはただの夢だと切り捨てて、また眠りに戻る。

 だが……今夜はうまくいかなかった。

 何の気なしに手のひらを見る。


 器の重さの残滓が、まだそこにあるような気がした。

 冷たくひんやりとして——それなのに、温かかった。


(……厨房で彼が差し出してきた皿も)


 同じ重さだった。

 受け取るつもりなどなかった。

 なのに気づいたら、思考より先に指が動いていた。

 名残惜しさに皿の縁を、なぞっていた。


(……なぜあんなことをした)


 今更のように問う。だけど答えは出ない。

 ただ指先だけが、あの感触をまだ覚えていた。


 ゆっくりと目を閉じ、開ける。

 また閉じ、開ける何度か繰り返す。


 これ以上は眠れないと気づいたのは、それからしばらく経ってからだった。


 起き上がり窓の外を見る。

 遠くに灯りがぽつりと見えた。


(……今更、何を思い出すというんだ)


 五百年の間、知らない名前だけが意味もなく残っていた。

 断片的な記憶の欠片は、転生した時から多少あった。

 だがそれは名前と同じで——意味をなさなかった。


 だから自分には関係ないと思っていた。


 ライゼルとして在ることが、自分のすべてだと。

 ――なのに。


 たかだか未知の甘味ひとつで、崩れかける。

 夢の中の声が、耳の奥に残っている。

 顔も見えなかったし輪郭すら曖昧だった。


 それでも——笑っていたことだけは、分かった。


(……過程が大事、か)


 いつだって、結果が伴わなければ意味はないと、そう思っていた。

 だがあの言葉に、不思議と腹は立たなかった。

 逆に——それが不快だった。


「味覚が記憶を揺さぶった、ということか」


 誰にともなく、呟く。

 声は静かな部屋に溶けて消えた。

 窓の外、遠くに見える城の灯り。

 その一室に、今頃あの男が眠っているのだろうと——考えて、やめた。

 考えたところで何も変わらない。


 あの男は異邦の民で、俺はこの国の宰相——ライゼルだ。


 ◇


 ベッドを抜け出し、机の上の書類を手に取る。

 夜明けまで、まだ時間はある。

 それだけを理由に、ペンを握った。


 ——ただ、インクをつける前に一度だけ。

 手のひらを、静かに握り込んだ。

ご一読いただき、ありがとうございます。

完結まで走り抜けられるよう、一話一話大切に更新してまいります。

もし少しでも「続きが気になる」と思っていただけたら、ブックマークや下の【☆☆☆☆☆】で応援いただけると、執筆の大きな励みになります!

次回もよろしくお願いいたします。

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