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第24話 戦わずして、価値を示す


 鍋の蓋を持ち上げた瞬間、真っ白な湯気が一気に溢れ出した。

 蒸気の向こう側から、この厨房にはこれまで存在しなかったはずの甘く柔らかな香りが立ち上る。


 俺は即席の蒸し器から器を取り出した。いくつか作った中で一番大きなものを選んでそっと揺らしてみると、中身はぷるりと心地よい弾力を伴って震える。

 

 色は淡い黄金色で、表面はなめらかに整っていた。

 想定よりも、ずっとうまくいった。


「……できた」


 威力を落とした初級の氷魔法で、表面から静かに冷やしていく。

 熱が引いていくあいだ、厨房は水を打ったように静まり返っていた。


 料理人たちは誰一人として手を動かさず、ただその黄金色の塊を凝視している。

 さっきまで包丁を握っていた手が、それぞれの持ち場で止まったままだ。

 入ってきた時には侮りの視線を向けていた者たちが、今は息すら忘れたように黙っていた。


 「……それが、ハニードロップとミルフィルムの成れの果てだというのか」


 料理長の声に、もはや棘はなかった。

 疑念だけが、圧倒的な"結果"を前に立ち尽くしている。


 彼らの言う"魔獣の餌"は、今や全員の視線を釘付けにしていた。

 味見用に皿を用意し、器を逆さにして静かに落とす。

 縁からゆっくりと器を引き抜くと、形を保ったままゆるやかに揺れた。


 誰かの、息を飲む音が聞こえた。

 そのときだった。


「おいおい、なんだこの堪らねぇ匂いは……! 城の反対側まで漂ってきてんぞ!」


 重厚な扉が勢いよく開き、場違いなほど明るい声が響いた。

 振り返ると、鼻をひくつかせたナツカが立っている。


「ナツカ……? あれ、お前一人なの? セルガは?」


 厨房に、小さなどよめきが走った。

 恐らく俺が魔王の名を気安く呼んだことに対する戸惑いのようなものだろう。


「ん? あぁ、置いてきたけどそのうち来るだろ」

「お前……近侍の癖に魔王様置いてきていいのかよ」

「いいっていいって、そんなことより!これ!なんだよこのいい匂いは……!」


 扉の方を見てもまだセルガの姿は見えない。

 本来隣を歩いているだろうナツカが欲望に負けて単身来たのだろうと思うと、ちょっとだけ呆れたような声が漏れる。

 しかしそんな俺とは対照的に、興奮気味のナツカの視線が俺の手元の黄金色に吸い寄せられた。


「それ……もしかして」


ナツカは露骨に動揺し、口元を押さえながら苦し紛れに言葉を選んだ。


「……プリ……いや……コホン! 随分、その……プリンプリンと不敵に揺れる食べ物だな!?」


 前世を隠そうとした結果、語彙が完全に崩壊している。

 必死に平静を装ってはいるが、その目に宿る期待と懐かしさは、かつての夏彦(ナツヒコ)そのものだった。

 五百年越しに、あの頃の顔が戻ってくる。

 胸の奥が、じわりと温かくなった。


「……セルガに渡すんだろ? それなら毒味が必要だよな。俺がやる。な?」

「いけません! ナツカ様! 毒味は私が――!」


 一歩、また一歩と詰め寄るナツカを制止しようとバルハが慌てて声を上げたが、ナツカは止まらなかった。

 スプーンをひったくるように手に取り、迷いなく口に運ぶ。


「…………っ」

「ナツカ様!!」


 肩が、がたがたと震える。

 天を仰いだナツカの喉から掠れた声が落ちた。


「……ああ、クソ。なんだよ、これ……美味すぎて、笑えねぇ」


 それは、泣いているようにも聞こえた。

 再会してからのナツカは成長の賜物か、あの頃のやんちゃさは影を潜めてどちらかといえば飄々としている印象だった。

 だからこうして感情が崩れている姿に、少しだけ懐かしさを覚える。


「ナツカ様……ご無事ですか?」

「当たり前だろ。これは……俺が、ずっと探してた味だ」


 子供のように目を輝かせるその横顔に、バルハはほっと息を吐く。

 その反応だけで、厨房の空気は一変していた。


 若い料理人の一人が、喉を鳴らして唾を飲み込む。


「……なあ、俺にも……一口、食べさせてくれよ」

「こら、若造! ナツカ様の前だぞ!」


 叱責する料理長自身も、皿から目を逸らせずにいた。

 俺は小皿をいくつか並べ、残りを手早く分けていく。


「よければ、皆さんで。味見用ですから」


 言い終わるより早く、若手たちが集まった。

 恐る恐る口に運び――次の瞬間、驚嘆が弾ける。


「舌の上で……溶けた?」


「ハニードロップのえぐみが……消えてる。いや、深みになってるのか」


「この滑らかさ……魔力で練り上げた料理より、ずっと……」


 職人たちが口々に言葉を交わす中で、料理長だけが動かなかった。

 その大きな体躯が、皿を前に微動だにしない。

 さっきまでの威圧的な雰囲気はどこへやら、ただ一点を見つめたまま黙っている。


 俺は一皿を手に取り、彼の前へ差し出した。


「……料理長も、どうぞ」


 太い指が、ゆっくりとスプーンを握る。

 一口食べ咀嚼し、嚥下する。

 厨房の誰もが、彼の言葉を待っていた。


「……負けだ」


 零れるような呟き。


「魔力に頼らず、素材を信じ、その声を聞いた……お前の勝ちだ。認めよう。この料理は俺たちの常識を越えている」


 まだ正式な名も持たないそれに、料理長は敬意を払った。

 その一言に、周囲の料理人たちが静かに頷く。


「コノエと言ったか。お前は『異邦』の民なのだろう? ならば、他にも我らの知らぬ調理法や食材の扱いを知っているはずだ」


 拒絶は消え、職人の向上心が宿る。


「頼む。またここへ来て、お前の知っていることを教えてはくれないか。我らもこのままでは終わらん。お前の技術を学び、さらに高みを目指したい」


 俺は慌てて手を振る。


「そんな、教えるだなんて……。あ、そうだ、遅くなりましたが」


 俺は料理長に向き直り、丁寧に頭を下げた。


「昨夜と今朝は、美味しい食事をありがとうございました」


 厨房が静まり返る。

 料理長はバツが悪そうに鼻を掻いた。


「……よせ。こんなものを見せられた後じゃ、嫌味にしか聞こえんぞ」

「そんなことありません」


 俺は強く首を振った。


「本心です。誰かが自分のために作ってくれた食事……本当に、久しぶりだった。温かくて……嬉しかった」


 嘘はなかった。

 あの十年、喉を通れば何でもよかった"餌"とは違う。

 ここには、確かに作り手の体温があった。


 食べるたびに感じる、その温かさ。それが今更ながら嬉しかった。

 料理長は目を見開き、やがて照れ隠しに頭を掻き回す。


 その仕草が、さっきまでの威圧的な態度とはあまりにも違いすぎて思わず口元が緩んだ。


「……陛下が目を留める理由が、分かった気がするぜ」


 穏やかな笑み。


「次は俺たちが、お前に負けない料理を出す。……だからコノエ、また来い。お前の席は空けておく」

「……はい!」


 ナツカが「うまいうまい」と騒ぐ傍らで、胸の奥がじんわりと熱を帯びる。

 戦うための力ではなく。

 誰かを傷つける牙でもなく。


 俺は、俺のままで。


 この城に小さな居場所を、見つけたような気がした。

ご一読いただき、ありがとうございます。

完結まで走り抜けられるよう、一話一話大切に更新してまいります。

もし少しでも「続きが気になる」と思っていただけたら、ブックマークや下の【☆☆☆☆☆】で応援いただけると、執筆の大きな励みになります!

次回もよろしくお願いいたします。

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