第23話 甘い香りが、満ちるとき
案内された厨房は、城の規模に違わず広大だった。
屈強な体躯の魔族たちが無駄のない動きで立ち働き、床も調理台も隙なく磨き上げられている。
空気には清潔さと、包丁や調理器具の研ぎ澄まされた鉄の匂いが混じっていた。
だが俺が足を踏み入れた瞬間。
その整然とした秩序が、ほんのわずかに軋む。
「――皆、手を止めよ」
バルハの低い声が響き、料理人たちが一斉にこちらを向いた。
視線が突き刺さるように集まる。
中央に立つ、筋骨隆々の大男。料理長と思しき魔族が、鼻を鳴らしながら俺を上から下まで眺めた。
そこにあったのは好奇心ではない。はっきりとした、不快感だった。
「……バルハ様。陛下が保護されている客人だという話は承っております。
ですが、ここは遊び場ではない。宮廷の膳を預かる、我らの聖域です。素人を立ち入らせるなど、どのような理由があれおやめ頂きたい。我らの誇りを汚されるのは、我慢ならんのです」
早口に捲し立てると、料理長は手にしていた包丁をまな板に重く叩きつけた。
乾いた音が響き、周囲の料理人たちの視線がさらに冷ややかになる。
だけど不思議と、恐怖は感じなかった。
彼らの目にあるのは、敵意でも嘲笑でもない。
自分たちの領域を守ろうとする、至極真っ当な拒絶だ。
それは十年間浴び続けてきたものとは、まるで違った。
だけど、退くつもりはなかった。
ここで引けば俺は、この城で一生『何者でもない荷物』のままだ。
俺は一歩前に出て、料理長を真っ直ぐに見据えた。
「……一度だけでいい。場所と道具を貸してもらえれば材料は全部、自分で用意します」
料理長が鼻で笑おうとしたその瞬間、俺は空中に手をかざした。
空間が水面のように歪むと琥珀色に輝く果実、手のひらサイズの卵、白い蕾をつけた植物が次々と現れる。
「……ッ!? これは……空間魔法?」
「ほう……」
厨房にざわ……と衝撃が走る。
バルハだけが、感心したように小さく声を漏らした。
亜空間に物を収納する魔法――《魔装倉》。
生存進化の副産物であり、極めて稀な能力だと昔誰かが言っていたが、気づいたときにはもう使えるようになっていた。
どこで覚えたのかも、もうよく覚えていない。
「……ヴァルハスの森のハニードロップ、フォレグリスの卵、ミルフィルムだと?」
料理長は今度こそ鼻で笑い、周囲の料理人たちも肩を揺らす。
「ハニードロップは熱を加えれば分離し、えぐみが出る。ミルフィルムは独特の青臭さがあり、とても食えたものじゃない。どれも料理には適さぬ、魔獣どもの餌だ。それで一体、何を作るつもりだ?」
「……魔獣の餌かどうかは、やってみないと分からないと思います」
俺の引かない態度に料理長は不愉快そうに顔を歪めた。
しかしバルハの視線に気づくと舌打ちを一つしてから顎で空いている調理台を示した。
「……勝手にしろ。ただし、道具を一つでも損ねたら、その場で叩き出す」
◇
(……よし、やるか)
まずミルフィルムの茎を絞り、牛乳のような香りが混ざる白濁液を抽出する。
料理長の言う通り、そのままでは青臭い。
だが鶏のような魔獣、フォレグリスの卵に含まれる特定の成分とハニードロップの蜜をある順序で反応させればその臭みやえぐみは、深みのあるコクへと変わる。
――これは、知識じゃない。
森で生き延びるために、何度も失敗を重ねて覚えた"経験"だ。
最初の数日は、食べられるものを手当たり次第に試した。
何度失敗しても、また別の組み合わせを試した。
毒だろうが何だろうが片っ端から。
生存進化が死なせないのを分かっていたから。
けどその経験が今、ここで息をしている。
カチャカチャと、規則的な音が厨房に響く。
迷いのない手つきに、料理長は無言のまま視線を注ぎ始めていた。
絞ったミルフィルムを熱し、沸騰する直前。
液面がわずかに震えた瞬間、火を止める。
「……火を止めた? まだ熱が入りきっていないはずだぞ」
背後で、若い料理人が小声で呟く。
だが構わずハニードロップの蜜を加え、静かに混ぜ合わせた。
いわゆる、保温調理だ。
蜜は高温すぎれば即座に分離し、えぐみを出す。
だが沸騰を避けたこの温度帯でミルフィルムと合わせると、成分同士が結びつき青臭さを包み込むように変質する。
森での試行錯誤の中で偶然発見した、この土地だけで通用する調理の理屈だった。
こして均一に解いた卵液へ、細い糸を垂らすように、ゆっくりと混ぜていく。
「――まさか、その温度で混ぜるのか」
料理長の低く鋭い声。
彼は調理台に手をかけ、身を乗り出すように俺の手元を凝視していた。
「普通なら分離して、ダマになる。だが……その温度なら卵が固まらず、ミルフィルムと馴染むのか」
確信を求めるような呟きに、周囲の職人たちも息を呑む。
だが問題はここからだった。
この厨房には、『蒸す』という調理法が存在しない。
当然、蒸し器などという道具もない。
俺は深く重厚な鍋を手に取った。
底に本来は肉を焼くための金属網を強引に敷き、網の高さぎりぎりまで水を張る。
「……何をしている。煮るのか?なら、器が邪魔だろう」
「いえ。煮るんじゃなくて、蒸気で熱を通します」
器に蓋をし、さらに鍋全体を分厚い布で覆って密閉する。即席の蒸し器だ。
「……蒸気、だと?水に浸けず、熱した空気の水分だけで火を通すというのか」
料理長が、驚愕に目を見開く。
魔力で無理やり加熱するのではない。
水の性質を利用した、間接的な加熱。
この世界には存在しない調理法だが、前世では当たり前のようにあった技法だった。
厨房の誰も、口を開かなかった。
包丁の音も鍋の音も止まっていた。
皆が固唾を飲んでこちらを見ていた。
やがて厨房に甘く、どこか懐かしい香りが満ち始めた時。
そこにはもう、俺を侮る視線は残っていなかった。
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