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第19話 ほどける夜、今日という一日


 腹よりも心が満たされた――

 そんな感覚を残したまま、俺たちは食堂を後にした。


 夜の廊下は昼間よりもひんやりとしていて、石床に自分たちの靴音が心地よいリズムを刻む。

 城の明かりは柔らかく、昼とは違う落ち着いた空気が漂っていた。


 セルガは俺の歩調を確かめるように一度だけ視線を落とすと、ナツカへ向き直る。


「俺は一度医務室へ行く。あとは任せた」

「はいよ、任された」


 短いが、信頼の滲むやり取り。

 それだけで二人の間にある長い年月と絆が伝わってくるようだった。


 去り際にセルガが一瞬、何か言いかけるように俺を見た。

 だが結局言葉にはせず、ただ静かに頷いてみせた。


「無理はするな」


 それだけ残して、背を向ける。

 黒い外套が角を曲がって見えなくなるまで、俺はその背中を見送っていた。


「さて、と」


 セルガの気配が完全に消えたところで、ナツカがパン、と軽く手を叩いた。


「部屋戻るぞ。さすがに初日から疲れたろ」


 俺は小さく頷き、歩き出す。

 ようやく肩の荷が下りかけた、その時。


「ナツカ殿」


 前方から低く、落ち着いた声がかかる。

 反射的に身体が強張った。


 視界に入ったのは、体格のいい魔族の男。

 整えられた鎧の意匠や揺るぎない佇まい、そして周囲を威圧する重厚な気配――。

 一目でそれが、手練れの軍人であると分かった。


 胸の奥が冷たい氷を押し付けられたように縮む。

 考えるより先に、人間領での『暴力の象徴』としての軍人のイメージが脳裏を掠めたのだ。


 ナツカが一歩前に出る。


「おぅ、フォロス。今から飯か?」

「あぁ、ようやく一段落したところでして……」


 男――フォロスは、静かに俺へと視線を向けた。

 だがその目には探るような鋭さはなかった。


「貴殿が異邦の民だな。俺はフォロス・ヴェルグだ。総軍団長を務めている」


 声は穏やかで深く通る。彼の声には屈服させるような圧はなく、対話のための音があった。


「貴殿の話は陛下から聞いている。……この国に流れ着くまで、辛いことも多かっただろう」


 痛ましそうに表情を歪め、労わるように声のトーンを落とした。


「だが、ここは――少なくとも我々は貴殿に害をなすことはない。だからどうか安心して、この国を新しい居場所だと思って過ごしてほしい」


 その言葉に、胸の奥で固く絡まっていた何かが緩む。

 俺は反射的に背筋を伸ばし、ぎこちなく頭を下げる。


「……ありがとう、ございます」


 声はまだ少し硬い。

 それでも恐怖に逃げるのではなく、相手の目を見て言葉を返せた。


 フォロスは、ほんの僅かに目を細めた。


「困ったことがあったらいつでも言ってくれ。――とはいえまずはしっかり休息をとることだな」


 彼は大きな手で俺の肩を壊れ物を扱うような力加減で一度叩き、ナツカに一礼する。


「では、失礼する」


 規則正しい重厚な足音を響かせ、彼は食堂の方へと去っていった。

 その巨大な背中を見送りながら、俺はようやく肺の奥に溜まった息を吐き出してぽつりと呟いた。


「……良い人だな」


 ナツカはどこか誇らしげに口の端を上げて笑った。


「あぁ、情に厚いやつでさ。部下にも慕われてんだ」


「……うん」


 軍団長。

 その肩書きだけで身構えてしまった自分が、少しだけ恥ずかしかった。


 やがて最初に通された部屋の前に辿り着く。


「はい、到着。そのうちお前用の部屋も用意されると思うけど今はここで我慢な。風呂は備え付けてあるから……あ、一人で入れるか?なんならメイド貸し出すか?」


 それは揶揄(からか)いではなく、今の俺の心身を案じての至極当然の提案なのだろう。

 けれど俺は慌てて首を横に振った。


「いや、大丈夫、一人で入る。……ナツカもセルガの護衛あんだろ? 俺は大丈夫だから戻りなよ、どうせあとはもう風呂入って寝るだけだし」


「ならいいけど……」


 ナツカはそう言って、少しだけ俺の顔を覗き込む。

 軽い調子は崩さないが、その瞳は射抜くように真剣だった。


「マジで無理すんなよ。今日一日、濃すぎたろ」

「……分かってるよ」


 そう答えると、ナツカは満足したように一つ頷いた。


「じゃ、俺は持ち場戻る。何かあったら、呼べ。近くにはいるから」

「あぁ、ありがとう」


 その一言で安心したのか、ナツカは軽やかに踵を返し、廊下を去っていった。

 足音が遠ざかり、完全に消える。


 残された静寂の中で、部屋の扉を閉めた俺は一度だけ、今日一番の深い呼吸を吐き出した。


 扉を閉めれば、外の世界との境界が生まれる。

 部屋は昼間と変わらず、落ち着いた色調の家具が並び、俺を静かに迎え入れてくれた。


 魔法灯に柔らかな明かりを灯し、視線を巡らせると奥に小さな扉を見つけた。


 そっと開けるとそこには石造りの浴槽が備え付けられていた。

 派手さはないが清潔で、静かな空間。


 その簡素さがかえって、今の俺には心地よかった。


「ちゃんとした風呂なんて、何年ぶり……いや……十年ぶりか」


 奴隷だった頃は冷たい水を乱暴に掛けられるだけだった。

 森に捨てられてからも自分で用意すればお湯は使えたが、それでも風呂と呼べるものではなかった。


 ◇


「……気持ちいい」


 湯船に身体を沈めると、皮膚に張りついていた緊張が指先から溶け出していくようだった。

 耳の奥にこびりついていた罵声や、鎖の擦れる嫌な音、嘲笑う声。それら全てが、たゆたう湯の中で静かにほどけ、流れていく。


 代わりに浮かぶのは、今日出会った魔族たちの顔や言葉だった。


「……こんなに良くしてもらって、いいのかな」


 呟きは、湯気に溶けて消えていく。


 答えなんてすぐには出ない。

 疑う癖は簡単には抜けない。

 

 それでも――肌に伝わる温もりが、確かにここにある現実を伝えてくる。


「……今日は、もう考えるのやめよう」


 そう決めて、目を閉じた。


 ◇


 湯から上がり、簡単に身体を拭く。

 部屋に居ない間に用意されていたのだろう着替えは、肌触りの良い上質な素材で不思議なほど身体に馴染んだ。


 袖を通すとその心地良さに気持ちが軽くなる。


 しかし寝台に腰を下ろした途端に疲労が押し寄せてきた。

 身体よりも心の方が限界だったのかもしれない。長年感じなかった、忘れていた感覚だ。


 横になり、高い天井を見上げる。


 ――明日はどんな一日になるんだろう。


 期待するにはまだ少し怖い。

 けれど恐怖だけでもない。


 恐怖と安堵が混ざり合った形のない曖昧な感情を抱え、俺の意識は吸い込まれるように深い眠りへと沈んでいった。


ご一読いただき、ありがとうございます。

完結まで走り抜けられるよう、一話一話大切に更新してまいります。

もし少しでも「続きが気になる」と思っていただけたら、ブックマークや下の【☆☆☆☆☆】で応援いただけると、執筆の大きな励みになります!

次回もよろしくお願いいたします。

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