第19.5話 交わってしまったもの(セルガ視点)
医務室へ向かう廊下は夜の気配を孕んで静まり返っていた。
石壁に反響する自分の足音が、やけに重く響く。
――違和感。
それはほんの一瞬だった。
胸の奥を鋭い棘が掠めたような感覚。
息を吸うよりも早く、視界がぐにゃりと歪んだ。
鼻をつく、生臭い血の匂い。
湿った冷たい土に、無理やり頬を押し付けられる泥の感触。
喉の奥にせり上がってくる、鉄の味が混じった嘔吐感。
頭上で響く、嗤い声。
それは楽しげで、ひどく軽薄で。
――人の尊厳を踏み潰すことに、何の躊躇もない冷酷な声。
それが、何度も、何度も、逃げ場のない雨のように降り注ぐ。
命を削り取るような屈辱の時間。
どこを見渡しても出口のない、絶望。
「……っ!」
喉が引き攣り呼吸が乱れ、反射的に壁へ手をつく。
石の冷たさが掌から腕――そして脳を覚醒させ、ここが魔王城の廊下であることを無理やり思い出させる。
――今のは、幻視だ。
分かっている。だが、あまりにも生々しすぎた。
感情が、濁流のように流れ込んできた。
怒り、恐怖、屈辱。そして――諦め。
断じて自分のものではない。
「陛下!?」
駆け寄る足音と焦燥を含んだ声。
顔を上げるとそこには眉を顰めたバルハが立っていた。
「大丈夫ですか、顔色が……」
「……問題ない」
そう答えはしたが、声が低く沈んでいるのは自覚している。
バルハもそれ以上は踏み込まず、言葉を選ぶように一拍置いた。
「……医務室へ行かれる途中ですよね。エルミナ様も、待っておられます」
短く頷き再び歩き出す。
今度は足取りを意識して保ちながらしっかりと。
◇
重厚な扉が開くと、薬草の香りが鼻をくすぐる。
「陛下、お待ちしておりました」
エルミナはすぐに立ち上がった。
声音は平坦で柔らかいが、その瞳はすべてを見透かすような鋭さで俺を射抜いている。
顔色の悪さを、彼が見逃すはずもなかった。
「……何か、ありましたか?」
短い問い。だが中途半端な誤魔化しは時間の無駄だと悟らせるには十分だった。
「……幻視を見た」
椅子に深く腰を下ろし、吐き出すように続ける。
「コノエのものと思われる記憶だ。いや……正確には、奴がかつて味わった"負の感情"そのものだ」
エルミナの表情が静かに引き締まる。
「……やはり。想定されていた事態です」
「分かっていたのか」
「可能性として考えていました」
彼は机の上の古い羊皮紙に視線を落としながら、淡々と論理的に説明を始めた。
「陛下が施した"書き換え"は、隷属印の強固な呪いの機能を強引に上書きする極めて高度な古代魔法です。
それを定着させるためには、術者である陛下の魔力を対象の魂の深層にまで浸透させる必要があった」
一枚、また一枚と細い指先が紙をめくる。
「結果として――陛下とコノエ様の魔力回路が、部分的に"接続"してしまっているのでしょう。同調現象です」
「……やはり、そうか」
視線を伏せ、膝の上で拳を握る。
胸の奥に重いものが沈んでいく。
「……勝手に、覗いてしまった形だな」
自嘲にも似た低い声が、静かな部屋に響く。
「見るつもりはなかった。だが……あれは」
言葉が途切れる。湧き上がったのは怒りだった。
魔王としてではない。あいつの友として。
だが、同時に胸を締めつけたのは――後悔。
「俺に、あいつの過去に触れる資格はない。……今後、ああいう形で強制的に"見る"ことは避けたい。断絶する方法はあるか」
エルミナは、思慮深く目を伏せた。
「魔力が馴染めば馴染むほどに頻度は増えるかもしれません。この不本意な接続を絶つには、コノエ様に刻まれた"隷属の紋章"そのものを、完全に消し去る必要があります」
「やはりそうなるか。……今すぐには無理だが」
ミシリ、と握りしめた拳が鳴る。
「何としてもあの忌々しい烙印だけは、俺の手で必ず消し去る」
「ええ」
エルミナは深く頷き、そして少し言いにくそうに付け加える。
「――それと、陛下。コノエ様の方でも、何らかの"干渉"が起きていると考えられます」
「分かっている。だが……その理由はまだ話さなくていい」
――せめて、完全な解除の目処が立つまでは。
「……それが、陛下のお考えなら」
エルミナはそれ以上踏み込まなかった。
医務室に、再び重苦しい静寂が戻る。
今頃、部屋で十年ぶりに安らぎを得ただろうコノエの姿を思い浮かべ。
胸の奥で静かに燃える感情を、押し殺した。
(……必ず、消してやるからな)
◇
――side:コノエ
夢の中はずっと、夜だった。
見たこともない街。歩いたはずのない道。
なのに胸の奥が、千切れるほどに痛む。
誰かが必死に走っている。人波を縫うように。
立ち止まっては周囲を仰ぎ、絶望し、それでもまた走り出す。
焦りと諦めが、何度も胸の中でせめぎ合っているのが分かる。
――いない。
――どこにも、いない。
――それでも、絶対に、死んでも探しだす。
一体……誰を?
昼と夜が曖昧に溶け、季節が何度も変わる。
学校の校門。雑踏。雨に濡れたアスファルト。
場所が変わっても、祈りのような激しい想いだけはずっと変わらなかった。
「もう諦めろ」
どこかで、誰かがそう言った気がする。
それでもその人は、首を横に振った。
――諦めてたまるか、絶対に見つけてやる。
次の瞬間、強い衝撃と共に視界を強烈な光が覆う。
そして言葉にならない後悔が、胸を貫いた。
「っ……!」
そこで、跳ねるように目が覚めた。
心臓が普段よりも早く脈打つ。
知らないはずの光景なのに。
俺の記憶ではないはずなのに。
どうしてかそれが――「置いていかれた側の痛み」だと、わかってしまった。
ご一読いただき、ありがとうございます。
完結まで走り抜けられるよう、一話一話大切に更新してまいります。
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次回もよろしくお願いいたします。




