63話 アルマの背中
「……?」
体が動かない。鼻先を黒い毛がくすぐり、妙な匂いがした。視界が揺れている。
「!」
鈴凛の体はアルマの背中にくっついている。大きな風呂敷のようになったアルマの背中の肉が鈴凛をおんぶする形で取り込んでいた。
「な」
鈴凛が声を発するとアルマがちらりと首を動かす。
「イノチ」
夜の湿気を残した葉には無数の露が輝き、東の空から差し込む朝日がそれらを金色の宝石のように照らしていた。
コンゴ民主共和国中央部の熱帯雨林には、すでに強い陽光が降り注いでいた。樹冠は四十メートル以上の高さで重なり合い、その隙間から差し込む光の柱が、森の床を金色に照らしている。
「おろして」
獣姫は言葉が通じていないのか、無視しているのかどんどん進んでいく。
巨大なゴリラの背中におんぶされながら、その森の奥へと進んでいるみたいだ。
どうなったんだっけ?
夜から記憶がない。
「!」
ラムジーの部下たちがアルマに襲われて大混乱に陥り、鈴凛はアルマを止めようとして、アルマの横からのグーパンチをくらって、気絶したような気がする。
「どこにいくの」
「イノチ」
全く会話にならなかった。
アルマの黒い毛並みは朝の湿気を含み、陽光を受けるたびに銀色の光沢を帯びる。力強い肩がゆっくり上下するたび、周囲のシダや若木がかすかに揺れた。背中越しに見える景色は、人間が歩く時とはまるで違う。地面から少し高い位置を進むため、密生した下草の向こうまで見渡せる。
頭上では巨大なアフリカンマホガニーやサペリの木々が空を支えていた。太い幹にはツル植物が何重にも絡みつき、その間を朝の風が静かに通り抜けていく。
突然、右手の高い枝から「キュルルル」という鋭い声が響いた。
見上げると、黒い体と白い尾を持つアカコロブスの群れが樹上を移動している。彼らは驚くほど軽やかに枝から枝へ飛び移り、葉の海の中へ消えていった。
「わあ……」
アルマは気にも留めず歩き続ける。
大自然が鈴凛たちを包んでいた。
少し進むと、前方の開けた場所で赤褐色の影が動いた。
「!」
森の中を横切ったのはボンゴだった。
白い縞模様が入った大型のレイヨウで、朝日に照らされた体は磨かれた銅のように輝いている。大きな耳をこちらへ向けたまま数秒立ち止まり、その後、音もなく茂みへ姿を消した。
森は静かだったが、生き物の気配に満ちている。
「!」
湿地帯へ近づくにつれ、空気がひんやりと変わった。
アルマが歩みを緩める。
そこには丸く大きな足跡が並んでいた。
「なに……?」
しばらくすると、木々の間から灰色の巨体が現れた。
「!」
巨大な耳をゆっくり動かしながら親子のマルミミゾウが水辺で泥を浴びている。体はサバンナゾウより小柄だが、密林の王者と呼ばれるにふさわしい威厳を持っていた。
「ゾウ……」
鈴凛は生まれてはじめてゾウをみた。
親が子を鼻でなでている。
「……」
鈴凛は家族で動物園にも行ったことがなかった。
「はじめてみた……」
ジャックの顔がまた脳裏に戻ってくる。
アメリカにいる時、セントラルパークの動物園へジャックと行くこともできたのに。
一度も連れて行かなかった。
何もかも大切なことをしてこなかった気がした。
大切なことが何もわかってなかった。
そんなことをジャングルが教えてくれている気がした。
「……」
鈴凛を背負ったアルマは立ち止まり、静かにその光景を見守る。
森には争いも焦りもない。
ただ生命が流れている。
頭上では鮮やかな緑色のオウムの仲間、アフリカハネナガインコが飛び去り、青空の一部を横切っていく。
陽光はさらに高くなり、巨大な葉の上の露を蒸発させ始めていた。
アルマは再び歩き出す。
鈴凛が振り返ると、無数の木々がどこまでも続いていた。緑の大海原のようなコンゴ盆地の森。その奥深くで、あなたは巨大なゴリラに運ばれながら、人類がまだ知らない太古の世界を旅しているような気分になるのだった。
しばらく行くと、巨大な木が現れた。
逆光に大きな巣—いや、ツリーハウスか?
「!」
鈴凛は驚いた。
ふたつのツインテールがくっきりと逆光にみてとれた。




