60話 猛獣
足を踏み入れた瞬間、ジャングルは鈴凛を飲み込んだ。
昼間でさえ陽光を拒む密林は、夜ともなればさらに深い暗闇へと変貌し、懐中電灯のライトなど嘲笑うかのように、木々の間に霧のような湿気が漂っていた。
戦姫の夜目でもほとんど見通しが効かない。
ラムジーの部下たちは行き止まりらしきジャングルのど真ん中で鈴凛をおろして待っていると言った。
「なんでこんなことに……」
足元では腐葉土が音もなく沈み込み、一歩踏み出すたびに、大地そのものが自分を引きずり込もうとしているような錯覚を覚えた。
足元を何の虫がいるのかはみたくもなかった。
夜の空に虫の羽音やら何の動物かわからない鳴き声が無数に聞こえる。
「はやく終わらせなきゃ」
青蛾が心配だ。
鈴凛に与えられたのは麻酔銃とライトとリュックのみだった。
猛獣は巨大な猿のようなもので、木から木へ飛び移る、非常に素早い何かということだった。
鈴凛はがそれは忌かと聞いた。
もしそうならば鈴凛は今神刀を持っていないため、火緋色金を含んだ金属でできた何かが心臓の破壊には必要だ。そのようなものをくれと要求すると、ラムジーは少し笑って違うと答えた。鈴凛の役目は捕獲だった。
「猛獣って……!」
鈴凛はぽとりと足の甲に落ちた巨大な蜘蛛を払いのける。どのような毒虫もヒルも蚊も戦姫の肌を食い破ることはできないことが幸いだったが気持ち悪いことに変わりはなかった。
「嫌すぎる」
鈴凛は麻酔銃とライトを従えて進んだ。
麻酔銃の麻酔量がゾウなみにはいっている。
「だいたいこんなジャングルでどうやってみつけろって……」
オクメの巨木が天を突くように聳え立ち、その根元からは無数の気根が地面を這い回っている。頭上では幾重にも重なったキャノピーが夜空を完全に遮り、星ひとつ見えない。懐中電灯の光が届くのはせいぜい数メートル先までで、その外側はただ、息をひそめた闇だけだった。
「んもう」
足元が何度も沈んだ。
湿地に踏み込んでいくが進んでいる気がしない。黒い泥水が靴の縁を越え、じわりと足首を包む。ラフィアヤシの葉が水面を覆い、どこが陸でどこが沼なのか、見た目では判断がつかない。一歩一歩、体重をかけるたびに泥が鈍い音を立て、足を引き抜くたびに湿地が名残惜しそうに足首を引く。あちこちでコンゴウィードが水中から茎を伸ばし、懐中電灯の光の中で白く浮かび上がっていた。
自分は何をやっているんだろうか。
ポケットにいれた荒玉の存在を時折確認しながら思った。
「なんでこんな」
虫の声が聞こえた。いや、聞こえていた——が、いつの間にか、それが止んでいた。
「!」
鈴凛ははっとして足を止めた。
その時、葉が揺れた。
風はなかった。
鈴凛は懐中電灯を揺れた方向へ向けた。光の輪の中に、オクメの根が複雑に絡み合う暗がりが浮かび上がる。その奥、湿地の水面すれすれに——二つの眼が光った。
「!」
高さからして、四つ足の獣だ。瞬きひとつしないその眼は、ただじっとこちらを見据えていた。
ヒョウだ、と鈴凛は思った。声に出す前に、それは闇に溶けて消えた。
「え……」
水面に波紋だけが残り、ゆっくりと、ゆっくりと、広がっていった。
「……?」
汗が首筋を伝い落ちたが、背中に走った寒気はそのせいではなかった。
気配が消えていない−−
「どこ」
木々の間に視線を走らせても、見えるのは懐中電灯が切り取る白い円と、その外側に広がる、底のない黒だけだ。音はない。気配だけがある。息を潜め、じっとこちらを見ている。
すぐそばの葉が揺れた。
「!?」
風はなかった。
鈴凛は息を呑み、懐中電灯を揺れた方向へ向けた。
気配なく間合いに入られたのだ。
「きゃ!!」
光の中に浮かび上がったのは、けむくじゃらの顔だった——人間の顔だ。そして一瞬だけ、闇に光る二つの眼だった。それは瞬きひとつせず鈴凛を見据え、次の刹那には、またジャングルの暗闇に溶けて消えた。




