ほのかな想い Ⅵ
どこからどう漏れてしまうのか、この吉長の噂は、新人大会の2日後には生徒の間で取りざたされ、さすがに噂に疎い遼太郎の耳にも入ってきた。
噂には尾ひれがつくものだが、救急車まで出動したというから大事には違いない。
あの夜のみのりはそれに対処した帰りで、緊迫から解放されて泣いてしまったのだと解って、遼太郎は心が痛んだ。
泣いたときのみのりの震えの記憶が甦ってきて、遼太郎の体は痺れるように硬くなった。
そして、あのきれいな涙を思い出すたび、胸が突き上げられる。
泣き顔の美しさを見て、もちろん愛しさは募るが、それ以上に、もうこれ以上泣いてほしくないという庇護の思いも強く感じた。
それでも、あの時みのりは、自分に会って安心したから涙を見せたのだと思うと、遼太郎は却って嬉しさのような感覚を覚えた…。
金曜日の朝に、みのりは遼太郎のタオルを返してくれた。木曜日はみのりの初任者研修で、会えなかったからだ。
「返すのが遅くなって、ごめんなさいね。」
「いえ…。」
遼太郎は会釈をしながら、それを受け取った。そのタオルを見て、それを使ったときのことを連想し、吉長のことに思いが及んだ。
「あの日は、箏曲部の大会で大変なことが起こってたんですね。」
遼太郎が考えた面接の返答に目を通し始めていたみのりが、驚いたように目を上げた。
「…生徒の間で噂になってる?」
険しい顔のみのりに、遼太郎も神妙になって答えた。
「と思います…。俺の耳にも入ってくるくらいだから。」
「そう…。」
みのりはその口調に、心配を漂わせた。
「あの…、前に先生が調子悪そうって心配していた生徒ですか?」
おっと鋭いな…というふうに目を丸くして、みのりは遼太郎を見つめたが、すぐに目を逸らし、
「ごめん。それは、たとえ狩野くんが相手でも、言えないんだ…。私たちには守秘義務があるから。」
と、申し訳なさそうな素振りを見せた。
そう言われて、遼太郎も首を振る。
「いや、すいません。俺も余計なこと訊いて…。」
恐縮した遼太郎に、みのりはニコリと笑顔を見せた。
「ううん、心配してくれて、ありがとう。」
と言いながら、再び面接の返答に目を移した。
遼太郎が考えてきた返答の内容は、資料の成果もあって、現実的で随分良い内容になっていた。
遼太郎が書いてある内容を受けて、みのりがそれを膨らませる。
こういうふうにも言える、ああいうふうにも考えられると、付け足したり削ったりしていくと、随分内容の濃いものになっていった。
以前みのりは、進路指導は詳しくない…と言っていたはずだが、それはかなり謙遜していると、遼太郎は思った。
この日全部に目を通すことは出来なかったのだが、みのりの添削が終わったものをもう一度まとめなおして、面接で答えられるように練習しなければならない。
「お芝居のセリフのように覚えてたら、一つ飛んじゃうと全部出てこなくなるよ。これとこれとこれを言う…というふうに、要点を押さえて覚えておくことが大事だから。あとは、あいまいなことは言わずに快活に、語尾までしっかりとした口調で、失礼な言い方にならないように、気を付ければバッチリよ!多分、その辺は狩野くんだったら大丈夫だと思うけど…。ね?」
そう言ってみのりが励ますと、遼太郎は黙って何度も頷いていた。
「面接の練習は、何度もやってて損はないよ。後々、就職活動でも役に立つからね。」
「そうか…、就職活動も…。」
どちらかというと、入試よりも就職活動の面接の方が、重要で切実な問題だ。
遼太郎は、今はまだ考えてもいなかったが、そう遠くない将来、必ず訪れる就職活動のことを持ち出されて、息を呑んだ。
「就活する頃の狩野くんは、もう大人になってるけど、どんな風になってるんだろうね。どんな仕事をしようと思っているのかなぁ…。」
みのりにそんなふうに言われて、遼太郎は自分の将来の希望に胸を弾ませるよりも、言いようのない不安がその胸を去来した。




