ほのかな想い Ⅳ
セミナーハウスの前には、もう人影もなく、みのりの自動車がひっそりと一台だけ駐車されていた。
小さな街灯が一つだけ灯る下で、遼太郎はみのりが車へと歩み寄るのを見守った。
みのりは、遼太郎が部室の方へ行くのを見送ろうと車に乗り込まないでいると、
「乗ってください。」
遼太郎がしっかりした口調で言った。
有無を言わさない感じに圧され、みのりが車に乗り込むと、遼太郎は窓から中を覗いて、
「ロックもして下さい。」
と言った。
みのりが言われるがままドアをロックしエンジンをかけると、遼太郎は安心したような表情をして、自転車を走らせ始めた。
みのりの車はヘッドライトで遼太郎の姿を照らし、その後を追うように走った。
小路から出るとき、遼太郎はチラリと振り向いて、みのりへと会釈をすると、今二人で歩いてきた方へと曲がった。みのりの家は反対方向なので、そこで遼太郎の姿は見えなくなる。
――そう言えば、狩野くん。部室に忘れ物があるって言ってたけど…?
でも、ラグビー部の部室は、遼太郎の曲がった方にはない……。
その時、みのりはハッと気が付き、胸の鼓動が一つ大きく打った。呼吸が乱れ、ハンドルを握る手に力が入る。
――狩野くん…。私を車まで送ってくれたんだ……。
泣いたみのりの気を紛らわせようと、取り留めもない話をして寄り添ってくれた。
「忘れ物をした」という優しい嘘をついて、暗い夜道をみのりが一人で歩かなくてもいいように、さりげなく車まで送ってくれた。
そんな遼太郎の優しさに、みのりの心は震えた。
男の人にあんな風に送ってもらうなんて、何年振りのことだろう。「乗ってください」と言ったときの遼太郎の顔を思い出すと、守られているという感覚が湧いてきて、胸は切なく鼓動を速める。
同時に、自分の中に湧き起こってくるそんな感情に、みのりは戸惑い動揺してもいた。
その甘く切ない感情の渦の中に巻き込まれ、自分を見失いそうになったとき、
プップッ!
後ろの車からクラクションを鳴らされた。
信号が赤から青になったのに気づかず、物思いに耽って車を発進させなかったためだ。
急いでアクセルを踏み直すと同時に、みのりは幾分正気を取り戻す。心を鎮めて、冷静になろうと努めた。
きっと今日はいろいろあって、みのりの心は疲れて弱くなっていたに違いない。
〝恋の吊り橋理論〟のように、ピンチを救ってくれた人に好意を持つことはよくあることで、それはその場限りの思い込みがほとんどだ。
みのりの心の中に光ったほのかなときめきも、心が過敏になっていただけだろう。
もし、あの時出会っていたのが同僚の古庄でも浜田でも、同じように学校まで送ってくれていたかもしれない。
遼太郎も、相手がみのりではなく澄子やその他の女子だったとしても、夜道を一人で歩いていれば送ってあげるに違いない。
それに、石原に一方的に別れを決断してから、まだ2か月しか経っていない。石原への未練のような感情も、みのりの心の芯の方には残っている。
それなのに、今の状況で他の人に好意を持つなんてありえない。
独り身の寂しさを埋めようと、異性に対する感覚が狂ってしまっているのではないか…。
みのりはそんなふうに考えて、自分の中に過った甘く切ない感情を否定することに必死だった。
教師という立場上、何としてもこの感情は認めるわけにはいかなかった。
それでも、みのりは帰宅してから遼太郎に「ありがとう」を伝えたくて、めずらしくメールを送った。
『狩野くん、忘れ物があるって言ってたけど、本当は私を車まで送ってくれたんだね。ありがとう。でも、帰るのが遅くなっちゃってごめんね。明日も朝早く個別指導があるけど、無理のない程度に予習をしてきてね。』
なかなか自分の言いたいことが伝えられなくて、みのりは何度も文面を打ち直した。少し油断をすると、心の奥底にフタをしている感情が見えてしまいそうで怖かった。
メールを送った後、晩御飯を食べようとしたけれども、食欲もないので先にシャワーを浴びた。
そして、脱いだものを洗濯機に入れる時に、遼太郎のタオルを持って帰っていることに気が付いて、一緒に洗濯をしようと取りに行く。
それを手にしたとき、頬を拭ってくれている遼太郎の姿が頭の中に再生された。
その再生された絵を再現するように、思わずみのりがタオルに顔をうずめると、ラグビーをするときの遼太郎の匂いがした。
「……狩野くん……。」
口を衝いて絞り出すように、みのりは遼太郎を呼んだ。
しかし、そんな自分を客観して、弾かれたようにタオルを顔から離した。そして、想いを振り切るようにタオルを洗濯機へと放り込んで、スタートのスイッチを押した。
洗濯をしてしまえば、もうタオルからは遼太郎の匂いはしなくなる。
みのりも心もこのタオルのように、明日遼太郎に会うまでに、きれいに洗い流して真っ白にしていなければならなかった。




