ほのかな想い Ⅲ
「先生は大学でそんな研究をしてたんですか?」
「ううん。専門は戦国時代じゃないの。あの辺の歴史は人間ドラマがたくさんあって面白いけどね。大学で研究してたのは、江戸時代の民衆の歴史。解読されてない古文書がたくさん残ってて、研究しなきゃいけないことが沢山あるの。」
「解読されてない古文書って、昔の人が筆で書いたものですか?」
「そうそう、くずし字っていうか、ミミズ文字みたいなのもあるわね。虫食いだらけで、埃まみれの汚い古文書もあるのよ。これが。」
これまでの拙い知識の中で、遼太郎はそれがどんなものか想像を巡らせた。
「それを、先生は読めるんですか?」
「読まなきゃ、研究できないでしょ。読めなくても、何としても読むのよ。」
遼太郎は唖然として、みのりを見た。
「すごいですね。先生。」
「すごいわけじゃないわ。日本史学科を専攻したら、誰でも…、うんまあ、苦手な人もいたけど、大体みんな読めるようになるのよ。大学はそういうところなの。」
「そうなんだ…。」
漠然とした未知の領域は想像に難く、遼太郎は目を白黒させる。
「狩野くんは、大学でどんな勉強をするのかな?何を専門にするのかな?楽しみだね。」
みのりが優しく微笑むと、遼太郎は自分の未来を展望するよりも、みのりが微笑んでくれたことに、心が安堵で緩んだ。
「その前に、入試に合格しなきゃ、大学には行けません。」
おどけるように眉を動かして、遼太郎が現実を持ち出すと、みのりの笑顔はいっそう朗らかになった。
「そうね、明日からまた、頑張ろうね。…あれ?狩野くん?」
みのりが立ち止まると、遼太郎もペダルをこぐのをやめて、みのりを振り返った。
「田島町って、こっちの道じゃないの?」
そう指摘されると、遼太郎は唇を噛んで目をクルリとさせた。
「ちょっと、学校に忘れ物したのを思い出したんで…。」
「忘れ物って、もう教室には入れないでしょ?」
「あの…、部室に…です。」
遼太郎がとっさに思い付いた嘘に、ふうん…というふうにみのりは頷き、再び歩きはじめる。
――こんな暗い夜道を、先生一人で歩かせるわけにはいかない。
あと学校まで300mもないが、遼太郎はそう思っていた。
それに、こんなふうに二人で並んで歩けるのならば、学校がもっと遠ければいいのに…とも思った。
でも、今日はきっとみのりは疲れているはずだ。早く帰って、とにかく心と体を休めてほしかった。
並んで歩く二人の間に、ふと沈黙がよぎる。
その沈黙の中でふと、みのりは先ほどの自分の行動を思い返した。
――あんなに泣いてしまうなんて、狩野くんはどう思ったんだろう……。
生徒相手に、あそこまで自分をさらけ出してしまったことに、突然恥ずかしさが込み上げてきた。
――教師失格だわ…。
もちろん自己嫌悪に陥っていたが、遼太郎の顔を見た瞬間、みのりの中に圧倒的な安堵感が満ちたのも事実だった。
遼太郎が側にいる安心感に浸りたい…という、いつもみのりが打ち消していた願望に圧し負けてしまった。張りつめていたものがぷっつりと切れて、悲しいわけではないのに涙が止まらなくなってしまった。
そんなみのりを、遼太郎は、戸惑うでもなくうろたえることもなく、ただ黙って受け止めてくれた。
何があっても、遼太郎は自分のことを否定しない…。根拠はないけれども、遼太郎に対するそんな強い信頼感も、みのりの中にはあった。
あのタオルで涙を拭った瞬間、ラグビーをする遼太郎のことを思い出した。
あの試合の時、遼太郎を腕の中に包み込んだ感覚。一つの繭の中にいるような感覚がみのりの中に甦ってきて、今度はみのり自身が癒された。
みのりは横を向いて、遼太郎を改めて見上げる。頼もしいその横顔に、みのりはつい見惚れてしまった。
視線を感じた遼太郎が、みのりに目を合わせる。
「…何ですか?」
遼太郎の問いかけに、みのりは肩をすくめて首を横に振り、ほのかな笑みを浮かべた。
みのりの意味深な行動に、遼太郎の心はざわめいたが、平静を装って同じような微笑みを返す。
不意に遼太郎は、みのりが手にしている先ほど渡したタオルが、予備のきれいなものではなく、自分が使ってしまっていたものだと気が付いた。
心の中で「しまった…!」と舌打ちしたが、今更言い出すこともできず、微笑みは崩さないままみのりを見つめる。
そして、その動揺を押し込めて、気を取り直すように、
「車はどこに停めているんですか?」
と、遼太郎は訊いた。
「ああ、セミナーハウスのところ。駅にいちばん近いから。」
みのりがそう言うと、遼太郎は自転車の進路をセミナーハウスへ向かう小路へと変えた。




