一大事 Ⅳ
個別指導が終わって立ち上がった時、みのりの目が遼太郎の顔に留まった。愛しむような眼差しで、スッと手が遼太郎の顎に伸びて、そこに触れる。
「ここ、擦り剥いてる。試合で怪我したの?」
ショックで固まっていた遼太郎の心は、すぐに反応できずに、体までも硬くした。
座っていた時には気が付かなかった顎の傷が、二人とも立ち上がるとみのりが見上げるかたちになり、目に付いたのだろう。
いつも通りの優しいみのりの物腰に、突然心臓が跳ね上がる。
「…はい。」
遼太郎は、そう応えるのがやっとだった。
「そう、頑張ったんだね。他には、怪我はない?」
見下ろしたみのりの柔らかな笑顔には、打ちのめされた遼太郎の心を瞬時に癒す力がある。
「いや、ちょこちょこした分は、他にもあります。」
「そうなの?大丈夫?」
心配そうに首をかしげるみのりのその仕草に、遼太郎の胸はキューンと切なく疼いた。
「…だ、大丈夫です。」
「やっぱりタックルされるときに怪我しちゃうの?」
「うーん…、タックルするときにも怪我はします。」
「そっかぁ、じゃ、その程度で済んでよかったって思わなきゃいけないのかな?」
「……?」
「だって、『死んでもいい』と思ってタックルするんでしょ?」
前々回の試合の時に自分が言ったことだと思い出して、遼太郎は「あっ」と息を呑み、それから恥ずかしそうな顔をした。
「狩野くんが死ななくて、よかったわ。」
みのりが冗談を言っていると解った遼太郎は、歯を見せて笑った。
「ちょっと苛めすぎちゃったかな…」と思っていたみのりは、それを見て少し安心する。
「それじゃ、また今日の授業でね。」
微笑みを残してみのりが遼太郎に背を向け、職員室へ行こうとしたところ、自分が座っていたパイプ椅子に突っかかった。「おっと」とよろけたが、椅子の背もたれを掴んで、かろうじて倒れるのは免れた。
きまり悪そうに、みのりは遼太郎を振り返る。
「……今の、見てた?」
「……はい、見てました。」
返事と同時に、遼太郎は堪えきれずに吹き出す。
この前の第2グラウンドでのこともあって、遼太郎はみのりのこんなところを、とても〝かわいい〟と思った。凛々しい教師の顔を見せてくれた後なので、そのギャップを感じるとなおさらそう思う。
そして、笑いはどんどん大きくなっていく。
「笑・う・な!」
みのりは遼太郎に歩み寄り、満面の笑みの片頬を軽くつねった。
驚いた遼太郎が目を丸くすると、みのりもおどけたような笑顔を見せて、再び職員室へと足を向けた。
翌日筝曲部の新人大会は、電車での向かうことになっているので、芳野駅での集合となった。
大人数ならば、貸し切りバスを使うこともあるが、2年生4人、1年生3人の少人数の移動なので、電車を使わざるを得ない。
6月の大会の時のように、琴は楽器屋さんに運んでもらっており、外部の講師と生徒と1時間余りの列車旅だ。列車を降りた後は、会場までは路線バスを使う。
集合した生徒の中で、みのりは吉長の顔色を真っ先に確認した。前々から気にかかっていた生徒だ。
元来気立てのよい女の子で、奥ゆかしい子の多い筝曲部の中では珍しく、明るい雰囲気を作るムードメーカーなのに、このところその快活さが曇っている。
「どう?調子は?」
幾度となく、みのりはそう言って吉長が切り出してくれるきっかけを作ってはいるのだが、いつも「バッチリです!」と応えるばかりで、却って心配は深まるばかりだった。
列車の中で揺られている間も、まだ朝早い時間にも関わらず、吉長は青い顔をして眠っていた。
3年生が引退した後、この2年生と1年生は、少人数ながらも頑張って練習を続けていた。
欲を言えば、もうちょっと部員が増えてくれるといいのだけど、部員が少ないのは顧問のみのりが積極的な勧誘を怠っているからかもしれない。
箏曲部のことは外部講師に任せっきりで、ラグビー部のことばかりに気を取られていたことを、今更ながらにみのりは反省していた。




