第9話 勝たせるのは、戦えない男
実況モニターに映った一ノ瀬の右手が、震えていた。
拡大された映像が、その揺れを、残酷なくらい鮮明に映し出す。観客席から、失笑が漏れた。
「ほら見ろ」
鷺沢が、マイクを握って、嗤った。
「震えてる。やっぱり終わってるじゃないか。無適性者のお伽噺は、これでおしまいだ。誰か、救護班を呼んでおいてやれよ」
どっと、笑いが起きた。
俺は、観客席の隅で、その笑いを、黙って聞いていた。柵の内側にすら入れない、無適性者の場所で。拳が、自然と握られていた。だが、口は出さない。今、モニターの向こうにいるのは、俺じゃない。あいつだ。
――思い出せ。震えは、道具だ。
声にならない声で、俺は念じた。届くはずがない。それでも、念じた。
フロアの中央で、一ノ瀬は、震える右手のまま、静かに構えた。
正面に、公開実演用の魔物が、放たれる。牙を持つ、大型の獣型。鷺沢が"勝つ気しかない相手"として選んだ、格上の個体だ。
獣が、吼えた。
地を蹴って、一直線に突っ込んでくる。あの日の群れと、同じ疾さ。同じ、地響き。
一ノ瀬の身体が、一瞬、強張った。震えが、大きくなる。
だが。
青年は、退がらなかった。踏み込みも、しなかった。
息を、吐いた。細く、長く。足の裏の、母指球に、体重を落とす。左足は、前に出さない。半身のまま、獣の牙の軌道の上に、震える切っ先を――置いた。
揺れる帯の、どこかを通ればいい。
鈍い衝突音。獣の突進が、切っ先に逸らされ、巨体がフロアを横滑りする。爪が石床を削る、耳障りな音が響いた。決定打ではない。だが、一ノ瀬は、無傷だった。獣の巨体は、たった一枚の刃のあしらいで、狙った喉笛を、大きく外していた。
観客席の笑いが、ぴたりと、止んだ。
誰かが、小さく漏らした。「……避けた? いや、逸らしたのか、今の」
力で、受け止めたのではない。真正面から、才能で殴り返したのでもない。ただ、相手の力の向きを、半歩の体さばきで、ずらした。才能値に頼る探索者が、決してやらない戦い方。いや、やる必要のなかった戦い方だった。
控室のモニターの前で、榊と七尾が、息を詰めていた。
「……捌いた」榊が、呟いた。「あの体勢から、逸らした。教わった通りに」
俺は、モニターに近づくことも、遠ざかることもできず、ただ、そこに立っていた。
助けに、行けない。
もしあいつが、次の一手を間違えても、俺は、一言も、届けられない。この距離は、絶対だ。俺の商売の、いちばん残酷な一線。
だが、と俺は思った。
もう、俺が届ける言葉は、いらない。仕込むべきものは、全部、あいつの身体の中にある。あとは――あいつが、決める。
初めて、その事実が、恐怖ではなく、信頼として、胸に落ちた。
「行け」
俺は、モニターに向かって、小さく言った。「お前の身体は、もう、知ってる」
獣が、体勢を立て直し、再び猛った。二撃目。三撃目。連続する牙を、一ノ瀬は、退がりながら、そのつど切っ先で逸らしていく。震えは、消えていない。汗が、顎から滴っている。だが、剣は、一度も、落ちない。
そして、四撃目を逸らした、その瞬間。
獣の巨体が、大きく体勢を崩した。
一ノ瀬の目が、ひらいた。
ここだ。この一瞬のために、震えを抱えて、退がり続けた。守りの果てに、たった一度だけ生まれる、攻めの隙。
青年が、初めて、前に出た。
左足が、前に、踏み込む。
震えが、全身に走った。あの、いちばん怖い瞬間。一年前、パーティ全滅の刹那に、この身体を金縛りにした、あの間合い。ここで、いつも、剣が抜けなくなった。ここで、いつも、全部を失った。
だが、一ノ瀬は、止まらなかった。
怖い。怖いままだ。手は、痙攣するように震えている。それでも、あの人の声が、身体の芯に灯っていた。怖いままで、動いていい。震えは、道具だ。
震えごと、その踏み込みを、青年は、抜き放った。
剣が、化け物じみた才能値の天井を、ついに解き放つ。震える切っ先が描いた、揺れる帯。その帯の、どこかを、刃が通ればいい。仕込まれた地図の通りに、身体が、動いた。
発揮効率、九割。壊れる前の、いや、壊れる前ですら届かなかった高みで、その一撃は、獣の巨体を、袈裟に、両断していた。
霧のように、獣が散る。無数の光の粒が、フロアに、ゆっくりと降った。
静寂。
誰も、声を出さなかった。才能ゼロと嗤った観客が、実況のカメラが、鷺沢が――全員が、言葉を失って、フロアの中央に立つ、一人の青年を見ていた。
やがて、どこかの席から、まばらな拍手が起きた。それが、伝播する。さざなみのように広がって、会場全体の、割れるような歓声に変わった。
一ノ瀬は、荒い息のまま、フロアに立ち尽くしていた。
それから、ゆっくりと、ポケットから、あのバッジを取り出した。角の欠けた、リーダーの形見。
それを、握りしめて、天井を――その、ずっと上を、仰いだ。
「……見てたか」
その声は、歓声には、かき消されていた。だが、俺には、聞こえた気がした。
歓声の渦の中で、俺は、ようやく、詰めていた息を吐いた。
勝ったのは、あいつだ。戦ったのも、あいつだ。俺は、何もしていない。ダンジョンにも、フロアにも、入れなかった。ただ、扉の前で、待っていただけだ。
それでいい。それが、俺の仕事だ。
戦うのは、弟子。勝たせるのは、戦えない男。
――今度は、間違えなかった。
三年前の、雨の匂いが、少しだけ、遠ざかった気がした。
その頃。
街の中心にそびえる、クラン「ゼニス」本部の一室で。
一人の男が、壁一面のモニターに映し出された、その勝利の映像を、静かに見つめていた。
冴島迅牙。才能至上主義の、総本山の主。
彼は、一ノ瀬の、あの震えを抱えたままの立ち回りを、繰り返し、繰り返し、再生していた。指を組み、微動だにせず。
やがて、その口が、低く、開いた。
「……あの手法。あの、身体の使い方」
男の目が、細められる。
「才能で殴っていない。効率を、組み替えている。恐怖を、消さずに、飼い慣らしている。……こんな真似ができる人間を、私は、ひとりしか知らない。ずっと昔に、一度だけ見た。そして――消えたはずの、技術だ」
冴島は、映像を、巻き戻した。歓声の中、観客席の柵の、そのまた外に、ちらりと映り込む、ジャージ姿の無適性者。カメラは、その男を、映すつもりなど、まるでなかった。ただ、偶然、隅に入り込んだだけだ。
だが、冴島の視線は、その隅の一点に、吸い寄せられて、動かなかった。
「彼、か」
組んだ指に、わずかに、力がこもった。
「生きていたのか。――あんな場所で、まだ、人を、直していたのか」
その声に、嘲りは、なかった。あったのは、もっと静かで、もっと厄介な、何か別の感情だった。




