第10話 我流の天才
工房の外で、少女が一人、膝をついていた。
十二月の、乾いた朝だった。旧スポーツ地区の空き地に、白い息が上がっている。少女は、そんな寒さもかまわず、右手を前に突き出し、何かを、ぶつぶつと唱えていた。詠唱だ。
指先に、青白い光が、ちりちりと灯る。だが、それは形になる前に、ぱっと弾けて消えた。少女が、舌打ちする。もう一度、右手を突き出す。唱える。今度は、光が灯った瞬間、少女の顔が、苦痛に歪んだ。右肩を、左手で押さえて、膝をつく。
俺は、工房の窓から、それをしばらく見ていた。
放っておけない光景だった。あの右肩の押さえ方。あれは、痛みを、無理やり黙らせようとする手つきだ。昔、投げすぎて肩を壊した投手が、何度も、あの押さえ方をしていた。マウンドを降りたくない一心で、痛みに、蓋をして。そういう選手ほど、最後は、二度と投げられない壊れ方をした。
あの復帰戦から、数日が経っていた。一ノ瀬の勝利は、実況の切り抜きで、そこそこ拡散したらしい。工房の固定電話に、ぽつぽつと、問い合わせが入るようになった。壊れた身内を、診てもらえないか、と。世間の隅で、静かに、噂が立ち始めている。配信でバズったわけじゃない。ただ、勝った弟子の戦い方を見た誰かが、あそこには何かある、と、口伝えに、広げていく。それが、俺の望んだ、評価の立ち方だった。
その最初の一人が、この、膝をついた少女、というわけだ。もっとも、本人に、診られる気は、まるでないらしいが。
工房の扉が開いて、七尾が、困り顔で入ってきた。
「霧生さん。あの子、音羽さんっていうんですけど……支部で、何度も倒れてて。才能値は、かなり高いんです。なのに、実戦値が、どんどん落ちてる。どう見ても、身体を壊してて。……でも、誰かに診てもらう気は、ないって、頑として」
「連れてきたのか」
「無理やり、ここまでは。……でも、入口で、あの調子で」
俺が外に出ると、音羽と名乗る少女は、立ち上がって、こちらを睨んだ。十九か、二十歳そこそこ。負けん気の強さが、目に、そのまま出ている。
「なに、あんた」
「霧生だ。ここの主人でな」
「ふうん。……壊れた探索者を、再生するとかいう、噂の工房ね」少女は、鼻で笑った。「あたし、壊れてないから。帰る」
「音羽さん、待って」七尾が慌てる。「さっき、また倒れて」
「転んだだけ! 大げさなのよ、あんた」
音羽は、七尾の手を振り払った。その拍子に、右肩が、びくりと跳ねる。本人が、それを、慌てて押し隠した。
そのとき、工房の中から、一ノ瀬が出てきた。
あの復帰戦から、こいつは工房に居着いている。もう、震えは、日常では出ない。すっかり、俺の助手のような顔だ。
「おい」
一ノ瀬は、音羽の前に立った。
「その右肩、詠唱のたびに、庇ってるだろ。痛いんじゃねえのか」
「……は? あんたに、関係ある?」
「ある。俺も、そうだったからだ」
青年は、自分の右手を、軽く上げてみせた。
「一年、俺は、剣も抜けなかった。手が震えて、な。周りには、才能値だけは化け物なのに、中身は欠陥品だって、笑われた。……お前が今、してる顔。俺、知ってるぜ。誰にも頼りたくねえって顔だ」
音羽の表情が、一瞬、揺れた。だが、すぐに、突っかかる口調で、それを塗り潰す。
「勝手に、分かった気にならないでよ。あんたと、あたしは、違う。あたしは、才能があるの。我流でも、ちゃんと、上に行けるの」
「その我流が、お前を壊してんだよ」
俺は、静かに、口を挟んだ。
音羽が、こちらを、キッと睨む。
「今の詠唱、三回、見せてもらった」俺は続けた。「お前、光を練るとき、右肩を、極端に上げてる。肩甲骨を、無理やり吊り上げて、そこから、力を絞り出してる。息の吸い方も、浅い。胸だけで吸って、腹が使えてない。……最初は、それでよく出たんだろ。才能値が高いから、多少の無茶なフォームでも、光は、ちゃんと形になった」
少女の頬が、こわばった。
「誰にも、習わなかったんだな。適性判定で、いきなり高い才能値が出て、教える側の大人が、みんな、お前より才能値が低かった。だから、誰も、お前に何も教えられなかった。お前は、独りで、我流を組み上げるしか、なかった」
音羽の目が、大きく、揺れた。今度は、隠しきれなかった。
「……なんで、それを」
「壊れ方が、そう言ってる。教わった人間の身体は、こうは壊れない。基本の型が、身体を守るからだ。お前の壊れ方は、誰にも守られずに、自分の才能だけを頼りに、無理を重ねてきた人間の壊れ方だ」
俺は、少女の右肩を、指さした。
「その使い方は、肩の一点に、全部の負荷を集める。使えば使うほど、そこが削れていく。今、お前の右肩は、悲鳴を上げてる。詠唱のたびに痛むのは、身体が、これ以上その使い方をするな、って、警告してるからだ。痛みってのは、敵じゃない。お前を、守ろうとしてる声だ」
「……知った風な、ことを」
「才能はある」
俺は、断定を、最後に置いた。
「それは、間違いない。榊に測らせりゃ、たぶん、大した天井が出る。――だが、その才能の、使い方が、お前を壊してる。このまま我流を続ければ、あと半年もたたずに、お前は、詠唱そのものが、できなくなる」
音羽は、しばらく、何も言わなかった。図星を、突かれた人間の、あの沈黙だった。
だが、やがて、彼女は、くるりと背を向けた。
「……うるさい」
声が、震えていた。怒りか、恐怖か、その両方か。
「あたしのやり方に、文句あんの? 才能のない無適性者が、偉そうに。あたしは、あたしのやり方で、上に行く。あんたらの世話には、ならない」
音羽は、そのまま、歩き出した。
だが、その足取りが、乱れていた。右肩を庇うせいで、身体の軸が、右に傾いている。半歩ごとに、痛みを堪えるように、肩が、小さく跳ねる。
本人は、気づいていない。あるいは、気づかないふりをしている。
俺は、追わなかった。追えば、余計に、殻に閉じこもる。壊れた人間ほど、そうだ。一ノ瀬が、そうだった。
ただ、その傾いた背中が、寒空の下、遠ざかっていくのを、俺は、黙って、見送った。
「……霧生さん」七尾が、不安げに、俺を見た。「いいん、ですか。あのまま」
「いい」
俺は、白い息を吐いた。
「あいつは、また来る。あの痛みが、あいつを、ここへ連れ戻す。――問題は、その前に、身体が、壊れきらないかどうか、だ」
恐怖で固まった一ノ瀬とは、まるで違う壊れ方だった。あいつは、動けなくて壊れた。この少女は、動きすぎて壊れている。同じ"再生"でも、処方は、正反対だ。一人ひとり、壊れ方が違う。だから、同じ手は、二度と使えない。
それでいい、と俺は思う。楽な仕事じゃないほうが、性に合っている。
音羽の背中は、角を曲がって、見えなくなった。
その傾きが、俺の記憶の、いつかの背中と、静かに、重なった。誰の助けも借りずに、独りで、才能を武器に、無理を続けて――そうして、いちばん大事なものを、すり減らしていった、あの背中と。




