第11話 頼るのは、負けじゃない
翌々日の朝、音羽は、また工房の前にいた。
今度は、詠唱をしていなかった。ただ、扉の前で、上着のポケットに両手を突っ込んで、決まりの悪そうな顔で、地面を蹴っている。俺が扉を開けると、音羽は、こちらを見ずに、早口で言った。
「……一回だけ。見るだけなら、いい。診てもらうとか、そういうんじゃなくて。ただ、あんたが何を見てるのか、確かめたいだけ」
強がりの、精一杯の折り合いだった。頼りたい。だが、頼ると言えない。その不器用さを、俺は責めなかった。一年前の一ノ瀬も、同じ場所に立っていた。
「入れ。茶ぐらい、出す」
音羽は、鼻を鳴らして、それでも、中に入ってきた。右肩を、無意識に庇いながら。
榊は、その日、たまたま機材を置きにきていた。音羽を見ると、いつもの平らな声で、「へえ」とだけ言った。
「診るんじゃないんだろ。だが、測るだけなら、いいよな。数字を見るのは、僕の趣味みたいなもんだ。減るもんじゃない」
音羽は警戒したが、「測るだけ」という言葉に、渋々、腕を差し出した。センサーの帯が、細い腕に巻かれる。
小型の端末に、詠唱時の負荷が、数値と図で描き出されていく。
榊が、画面を、音羽のほうへ向けた。
「これが、君が光を練るときの、身体の力の流れだ。……見てごらん。この、右肩のここ。真っ赤だろ。全身で分散すべき負荷が、この一点に、まるで漏斗みたいに、集まってる」
図の上で、右肩の一点だけが、燃えるように赤い。他は、ほとんど青いままだ。
「本来、詠唱ってのは、足の裏から、腹、背中、腕、指先まで、全身を一本の管みたいに繋いで、力を流していくものだ。君は、その管の、途中を全部すっ飛ばして、右肩だけで、無理やり光を絞り出してる。……こんな使い方で、よく、ここまで出せたね。正直、感心するよ。才能値が、よっぽど高いんだろう」
俺は、その図を、横から覗き込んだ。
「息の吸い方も、見せてもらった。お前、詠唱の前に、肩ごと吸い上げてるだろ。胸の上のほうだけで、浅く。腹が、ぜんぜん動いてない。それだと、力の出どころが、最初から、上半身の、しかも右肩に偏る。……全身で吸って、全身で吐けば、その一点に集める必要は、なくなる」
音羽が、無意識に、自分の腹に手を当てた。言われて初めて、自分の呼吸の浅さに、気づいたらしい。
「才能値が高い奴ほど、こういう壊れ方をする」俺は続けた。「多少フォームが無茶でも、才能で押し切れちまうからだ。だから、間違ったやり方のまま、どんどん先へ行ける。行けてしまう。そして、ある日、身体のほうが、先に音を上げる。お前は今、ちょうど、その日に、来てる」
「……才能なら、ある」
音羽が、掠れた声で言った。だが、その声には、いつもの尖りが、なかった。
「数字は、嘘をつかない」榊は端末を閉じた。「君の出力が落ちてるのは、才能が足りないからじゃない。この、力の流し方が、身体を削ってるからだ。原因は、才能じゃなくて、フォーム。……つまり、直せる、ってことだよ」
その一言に、音羽が、はっと顔を上げた。
才能不足。きっと、この子は、ずっと自分をそう責めてきたのだ。出力が落ちるたびに、努力が足りない、才能が枯れた、と。だが、原因は、そこじゃなかった。ただ、正しい身体の使い方を、誰も、教えてくれなかっただけだ。
昼、俺は温いお茶を、音羽の前に置いた。
「誰にも、習わなかったんだな。詠唱」
音羽は、缶を両手で包んで、しばらく黙っていた。それから、ぽつりと、こぼした。
「……習える環境じゃ、なかったの」
声が、平坦だった。
「小さい頃から、適性判定で、才能値だけは、ずば抜けてた。そしたら、周りが、みんな、変わった。先生も、同じ教室の子も。あの子は特別だから、って。特別って言葉、褒めてるみたいで、ぜんぶ、線を引く言葉だった。あんたは違う、こっち側に来るな、って」
缶を握る指に、力がこもる。
「教えてくれる大人も、いなかった。だって、あたしのほうが、才能値、高いんだもん。あんたに教えられることは何もない、あとは自分でやれ、って。……だから、独りで、やるしかなかった。本を読んで、動画を見て、自己流で。痛くても、これが正しいって、自分に言い聞かせて」
音羽は、ふっと、力なく笑った。
「頼ろうとしたことも、あったよ。でも、頼るたびに、あの子、才能あるくせに、こんなこともできないの、って。才能が高いんだから、できて当たり前。できなきゃ、努力不足。……あたしの周りには、いつも、そういう物差ししか、なかった」
彼女は、窓の外の、冬枯れの空き地に、目をやった。
「一回、部活の先輩に、フォームを見てくださいって、頼んだことがある。そしたら、鼻で笑われた。あんたに教えたら、あんたが伸びて、あたしの立場がなくなるでしょ、って。冗談みたいに言ってたけど、目は、笑ってなかった。……あのとき、分かったの。才能って、人に、そういう顔をさせるんだって」
缶の表面の水滴を、音羽は、指で潰した。
「だったら、最初から、頼らないほうが、まし。独りなら、少なくとも、あの顔を、見なくて済む」
頼れば、馬鹿にされる。その刷り込みが、この子の背骨になっていた。だから、右肩が悲鳴を上げても、誰にも言わずに、独りで、抱え込んだ。
壊れ方は違う。だが、根は、一ノ瀬と同じだ。守られなかった人間と、頼れなかった人間。どちらも、独りで、傷を抱えている。
夕方、訓練を終えた一ノ瀬が、汗を拭きながら、話に加わってきた。話の流れを、どこかで聞いていたらしい。
「頼るのは、負けじゃねえよ」
青年は、音羽の向かいに、どかりと座った。
「俺も、ずっとそう思ってた。頼ったら、終わりだって。才能値だけの欠陥品が、人に泣きついたら、本当に、何もなくなるって。……でも、違った」
一ノ瀬は、自分の右手を、軽く開いてみせた。もう、震えていない手を。
「この人に、頼った。手を、見せた。恥も、全部さらした。そしたら、震えたまんまでも、勝てるようになった。……頼るのは、負けじゃねえ。独りで壊れていくほうが、よっぽど、負けだ」
音羽は、俯いていた。缶の縁を、指で、何度も、なぞっている。
長い沈黙のあと、その口が、小さく動いた。
「……教えて」
消え入りそうな、声だった。だが、たしかに、そう言った。
「あたしの、身体の使い方。……正しいの、教えて」
俺は、頷いた。この一言に、どれだけの勇気が要ったか、俺には分かる。
「ああ。一から、組み直そう。お前の才能が、ちゃんと届く身体に」
音羽の頬が、ほんの少し、緩んだ。初めて見る、素の表情だった。
だが、その、ようやく解けかけた空気を、外から、下品な声が、切り裂いた。
「うわ、マジかよ。才能崩れの、独学女まで拾ったのか」
工房の入口に、鷺沢が、立っていた。




