第12話 まぐれじゃない
「せいぜい、独学女に、無駄な希望を持たせてやれよ」
あの日、鷺沢は、それだけ言い捨てて、帰っていった。カメラは回していなかった。ただ、工房の様子を、探りに来たらしい。音羽の顔が、その一言で、ひやりと強張ったのを、俺は見ていた。あの手の悪意に、この子はまだ、鎧を持っていない。
だが、俺には、やることがある。過去の亡霊に構っている暇はない。
それから三日、俺は音羽の身体を、一から組み直した。
「息を、肩で吸うな。腹の底まで、落とせ」
音羽は、鏡の前で、何度も、呼吸をやり直した。最初は、うまくいかなかった。二十年近く、肩で吸ってきた身体だ。癖は、そう簡単には抜けない。
「詠唱は、右肩で絞り出すもんじゃない。足の裏で地面を掴んで、その力を、腹、背中、肩、腕、って、順番に送っていく。お前は、その途中を、全部飛ばしてた。今日は、その"途中"を、繋ぐ」
俺は、音羽の背中に、そっと手を当てた。
「今、ここ。肩甲骨が、動いてない。ここが硬いから、力が、肩の一点で詰まる。息を吐きながら、ここを、緩める。……そう。もう一回」
地味な作業だった。派手な特訓は、何もない。ただ、正しい力の通り道を、身体に、一本ずつ、思い出させていく。
三日目の午前。
音羽が、鏡の前で、右手を、前に突き出した。
「……いくよ」
息を、腹の底まで、落とす。足の裏に、体重を乗せる。肩は、上げない。
唱えた。
指先に、青白い光が、灯る。今度は、弾けなかった。ゆっくりと、拳大の光球に、育っていく。安定した、澄んだ光だった。
音羽が、目を、見開いた。
「……痛く、ない」
右肩を、押さえていない。左手が、宙で、行き場を失っている。いつもなら、この段階で、右肩が悲鳴を上げていた。だが、今日は、静かだった。
「出力、見てみな」
いつのまにか来ていた榊が、端末を掲げた。
「詠唱出力、この前の、倍近い。しかも、負荷は、半分以下だ。……力を、抜いたのに、出力が上がった。面白いだろ。これが、フォームってやつだよ」
音羽は、しばらく、その光球を、見つめていた。手のひらの上で、青白い光が、呼吸するように、ゆっくり明滅している。その光に照らされた横顔から、いつもの、突っかかるような険が、すっかり消えていた。
それから、ふ、と、笑った。今度は、力ない笑いじゃない。頬の緩んだ、素直な、子どもみたいな笑いだった。
「……なにこれ。すごい。あたし、こんなに、楽に出せたこと、ない。ずっと、歯を食いしばって、無理やり、絞り出してたのに」
「才能は、最初から、あった」俺は言った。「ただ、それを通す道が、詰まってただけだ。俺がやったのは、道を、通したこと。それだけだよ。光を出したのは、お前の才能だ」
「……あたしの、才能」
音羽は、その言葉を、確かめるように、繰り返した。才能。この子にとって、その言葉は、ずっと、人を遠ざける呪いだった。特別だから、こっちに来るな。才能があるくせに。……だが今、初めて、その才能が、自分を苦しめるものじゃなく、自分を助けるものとして、手のひらの上で、光っている。
小さな勝利だった。派手さも、歓声も、ない。だが、この子にとっては、たぶん、生まれて初めての、"誰かと一緒に"掴んだ光だった。独りで絞り出した光じゃない。頼って、教わって、その上で灯した光。それが、どれだけ違うものか、音羽自身の顔が、何より雄弁に語っていた。
光球が、ふっと、消える。音羽は、名残惜しそうに、その消えた手のひらを、しばらく見つめていた。
その、いい空気を狙い澄ましたように、昼、工房の前が、騒がしくなった。
鷺沢だった。今度は、実況のカメラを連れている。配信用の、小型のやつだ。レンズを、工房の入口に向けて、あの、人好きのする声を張り上げている。
「はい、来ました。噂の、再生工房。前回、まぐれで一勝した、一ノ瀬くんのいる工房です。今日はね、なんと、被害者第二号がいるらしい。独学で身体を壊した、才能崩れの女の子。……ここ、壊れた探索者を、見世物にして稼いでるんじゃないかって、もっぱらの噂で」
音羽が、さっと、青ざめた。俺の背に、隠れるように、半歩、退がる。
だが、その前に、一ノ瀬が、外へ出ていった。
「まぐれ、って言ったか」
声が、低かった。
「よお、一ノ瀬くん。震えは、治ったのかい? まあ、あの一勝は、相手が油断してただけ。次は、ないよ」
「……お前」
一ノ瀬の拳が、握られていた。だが、それは、震えの拳じゃない。もっと、深いところから来る、怒りの拳だった。鷺沢の顔を見た瞬間から、こいつの様子が、変わっていた。復帰戦のときの、あの静かな闘志とは、まるで違う。もっと、ざらついた、抑えのきかない何かが、青年の全身から、立ち上っている。
俺は、それを、見逃さなかった。
「一ノ瀬」俺は、低く、名を呼んだ。「乗るな。今のお前は、間合いが、崩れてる」
その一言で、青年は、はっと、我に返った。拳を、ゆっくり、開く。だが、その手は、まだ、微かに震えていた。恐怖の震えとは、違う種類の震えだった。
鷺沢と、一ノ瀬。この二人のあいだには、ただの挑発以上の、何かがある。単に、実況で嗤った、嗤われた、という関係じゃない。もっと古くて、もっと重い、澱のようなものが、一ノ瀬の目の奥に、渦を巻いている。
「よく吠える犬だ」鷺沢は、一ノ瀬の反応を、心底、楽しんでいる顔だった。まるで、そこに痛点があると、最初から知っていたみたいに、正確に、抉ってくる。「まあ、せいぜい、頑張れよ。……お前が、あのとき何もできなかったのは、これからも、変わらないだろうけどな」
あのとき。
その言葉に、一ノ瀬の顔が、ぐしゃりと歪んだ。
鷺沢は、それを見届けると、満足げに、カメラを止め、帰っていった。靴音が、遠ざかる。
工房に、戻った一ノ瀬は、しばらく、無言だった。壁にもたれて、床の一点を、睨んでいる。あの、初めて工房に来た日と、同じ座り方だった。
夕方。音羽が帰り、榊も引き上げたあと、俺は、一ノ瀬に、缶のお茶を放った。
「あの男と、何がある」
単刀直入に、訊いた。回り道は、しない。
一ノ瀬は、缶を受け取ったまま、開けなかった。長い、沈黙があった。工房の暖房が、低く、唸っている。
「……霧生さん」
やがて、青年は、絞り出すように、言った。
「あんたには、話してないことが、ある。一年前の、あの壊滅のことで。……ずっと、言えなかった。言葉にしたら、本当になる気がして」
缶を握る手に、力がこもる。
「でも、あいつの顔を、見てたら。もう、抱えてらんねえ」
その目が、初めて、俺に、助けを求めていた。睨むでも、突っかかるでもない。ただ、重すぎる荷物を、一人で持ちきれなくなった、若い男の目だった。
俺は、自分の缶を開けて、ひとくち飲んだ。急かさない。こういう話は、本人の呼吸で、出させるのが一番いい。
「聞く」
短く、そう言った。




