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ダンジョンには一歩も入らない。"壊れて引退した探索者"だけを最強に立て直していたら、うちの卒業生でランキング上位が埋まった  作者: ヲワ・おわり


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第8話 久遠

「震えを、消すな」

 訓練の初日、俺はそう切り出した。一ノ瀬が、怪訝な顔をした。

「消さないのかよ。あんた、ずっと、震えを直すって」

「直す、とは言ってない。扱えるようにする、と言った。この二つは、違う」

 俺は、鏡の前に一ノ瀬を立たせた。

「震えを完全に消そうとすると、身体は、それを抑え込むことに気を取られる。抑え込むのに使った力で、剣筋が鈍る。フォームが縮こまる。――だから、消さない。震えたまま、その震えを計算に入れて勝つ型を、これから作る」

 単独潜行の一件から、こいつは変わった。焦りが抜けて、俺の言葉を、一度、身体に落としてから飲み込むようになった。だから、この逆説も、すんなり入っていったらしい。

 やることは、地味の極みだった。

 まず、踏み込まない間合いの管理。左足を前に投げ出さず、半身のまま、相手の攻撃線の上に切っ先を置く"合わせ"の初太刀。震えは、切っ先を数センチ揺らす。その揺れを、あらかじめ軌道の"幅"として計算に入れておく。狙った一点ではなく、揺れる帯のどこかに刃が通ればいい、という置き方。

 普通の探索者は、震えなど出ないから、一点を狙う。だが一ノ瀬には、それができない。ならば、震えることを前提に、剣の理屈のほうを組み替える。欠点に合わせて、戦い方を設計し直す。これは、才能で殴る連中には、逆立ちしても思いつかない発想だった。彼らには、直すべき欠点が、そもそも無いからだ。

 何度も、何度も、繰り返した。俺が不規則に手を叩き、足元のマットをずらし、照明を落とす。想定外を、少しずつ足していく。そのたびに一ノ瀬は震え、それでも、剣を落とさなくなっていった。震えの"幅"を、身体が地図として覚え込んでいく。ここまで揺れても、刃はここを通る、という地図を。

 数日が、過ぎた。

 ある日の終わり、一ノ瀬が、汗を拭いながら、ぽつりと言った。

「……不思議だな。震えてるのは、前と同じなんだ。なのに、怖くない。怖いのに、怖くない。……変な言い方だけど」

「それが、抱えたまま勝つ、ってことだ」

 俺は頷いた。こいつの中で、恐怖が、敵から、道具に変わりつつあった。


 夜、榊が最後のデータを取りに来た。一ノ瀬が帰ったあとの工房で、男は端末の数字を、いつになく長いこと見つめていた。

「霧生さん」

 声が、少し、硬かった。

「あの子の発揮効率、才能値の天井の、九割まで来てる。才能値は最高格のまま、一ミリも動いてない。動いたのは、発揮効率だけだ。……これ、僕は、一度しか見たことがない数字だよ」

「そうか」

「久遠以来だ」

 その名前が、工房の空気を、凍らせた。

 榊が、はっと口をつぐんだ。眼鏡の奥で、しまった、という色が走る。この男が、言葉を選び損ねるのは、珍しかった。

 久遠。

 三年前、俺が診ていた、最後の選手。いや――探索者。ダンジョンができて、俺の仕事が消えたあとも、たった一人、俺を頼ってきた男。元は、俺が現役時代に診ていた、陸上の選手だった。故障を、俺が一度、治した。その恩を、あいつは大げさなくらい覚えていて、探索者になって壊れたとき、迷わず俺のところへ来た。あんたなら、また治せるはずだ、と。

 壊れて、それでも戻りたがって、俺が、整ったと判断して、送り出して。

 戻ってこなかった、あの男の名前だ。

 あのとき、俺は、久遠の"戻りたい"という言葉に、引きずられた。本人がこれだけ望んでいて、数字も揃っているなら、と。だが本当は、あと一月、待つべきだった。身体は戻っても、あいつの心の、いちばん深いところが、まだ現場を怖がっていた。それを、俺は、数字の九割に目を眩まされて、見落とした。見落としたのではない。見て、見ないふりをした。あいつの期待に、応えたかったから。

「……悪い。今のは」

「いい」

 俺は、榊を遮った。声が、思ったより、静かに出た。

「久遠のときと、同じ数字だ、と。お前は、そう言いたかったんだろ」

 榊は、答えなかった。答えないことが、答えだった。

 同じ数字。三年前、俺は、この"九割"を見て、大丈夫だと判断した。数字を信じて、送り出した。そして、間違えた。

 今、目の前の端末には、同じ九割が光っている。

 俺の手のひらに、じっとりと汗が滲んだ。数字は、また、大丈夫だと言っている。だが、数字が大丈夫だと言ったとき、俺は一度、人を喪っている。

 ――あの子は、あの人じゃない。

 榊が、前に言った言葉を、俺は自分に言い聞かせた。同じ数字でも、別の人間だ。久遠の"九割"と、一ノ瀬の"九割"は、同じじゃない。そう思わなければ、俺は、明日、あいつを送り出せない。

「榊」

「ん」

「明日、俺は、あいつを送り出す。今度は、間違えない」

 言葉にして、初めて、俺は自分の覚悟を確かめた。三年前の入口の、雨の匂いを、飲み下しながら。


 復帰戦の朝が来た。

 会場は、浅層に設けられた公開実演用のフロアだった。観客席には、思ったより多くの人間がいる。実況のカメラが、何台も、レンズをこちらへ向けていた。切り抜きを狙う配信者の姿も、ちらほら見える。

 その中央に、鷺沢が立っていた。俺たちを見つけて、にやりと笑う。

「よお、来たか、才能ゼロの再生工房。……本当に連れてくるとはね。感心するよ」

 男は、観客席へ向かって、両手を広げてみせた。

「みなさん、これが噂の"壊れた探索者"です。一年前、仲間を全滅させて、自分だけ生き残った男。手が震えて、剣も抜けない。それを、無適性者が"再生"したと言い張ってる。……さあ、本物の探索が、そのお伽噺を、どう扱うか」

 観客が、ざわめいた。嘲笑と、好奇の視線が、一ノ瀬に突き刺さる。露骨に、公開処刑の舞台だった。

 七尾が、俺の耳元で、硬い声で囁いた。

「霧生さん……これ、完全に見世物にされてます。鷺沢さん、勝つ気しかない相手を、わざと当ててきてる。無茶な舞台です」

 俺は、答えなかった。

 隣を見た。

 一ノ瀬は、ざわめきの中で、静かに立っていた。俯いてもいない。睨んでもいない。剣を提げた右手は、微かに震えている。だが、その震えを、こいつはもう、恐れていなかった。

 抱えたまま、そこに立っていた。

「……いってくる」

 青年が、短く言った。

 俺は、その背中に、何も足さなかった。仕込むべきものは、もう全部、仕込んだ。ここから先は、あいつの領分だ。俺は、この観客席の柵の、内側にすら、入れない。三年前と同じ、扉の前の男だ。

 ただ、ひとつだけ、違うことがある。

 三年前、俺は、久遠を送り出すとき、心のどこかで、目を逸らしていた。数字を盾にして、不安に蓋をした。だが今日は、違う。俺は、一ノ瀬の震える右手を、最後まで、まっすぐ見ていた。その震えごと、こいつを信じると、腹を括った上で、送り出す。

 見ないふりは、もうしない。

 一ノ瀬が、フロアの中央へ、一歩を踏み出した。実況のカメラが、いっせいに、その背中を追った。


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