第7話 入口までしか、行けない
浅層の空気は、湿って、鉄の味がした。
一ノ瀬は、貸し出しの安い長剣を提げて、青い光の落ちる通路を進んでいた。壁の鉱石が、うっすらと発光している。ダンジョンに入るのは、一年ぶりだった。一年前、ここより深い場所で、全部を失った。
角を曲がったところで、それはいた。
三体。犬ほどの大きさの、影の塊。目の位置だけが、濁った赤に光っている。低い唸りが、地面を這って伝わってきた。あの日と、同じ。地下から来る、あの震動。
その瞬間、右手が、跳ねた。
剣の柄を握った指が、別の生き物みたいに暴れる。全身から、汗が噴き出した。膝が笑い、視界の端が白く霞んでいく。息が、止まった。
――ああ、やっぱりだ。戻ってなんか、いない。俺は、まだ。
絶望が、喉元までせり上がってきた、そのとき。
あの人の声が、耳の奥で鳴った。
『息を止めるな。吐け。ゆっくりでいい』
『震えは、敵じゃない。倒れなきゃ、勝ちだ』
一ノ瀬は、歯を食いしばって、息を吐いた。細く、長く。止まっていた肺が、震えながら、また動き出す。
足の裏を、意識した。かかと。母指球。小指側。どこに体重が乗っているか。声には出さず、身体の中で、ひとつずつ確かめる。震える手は、そのままでいい。剣を、握り直すんじゃない。ただ、落とさなければいい。
影の一体が、地を蹴った。
牙が、一直線に伸びてくる。
一年前なら、ここで身体が固まった。前に出ようとして、震えて、動けなくなって、無防備な背中を晒した。だが今日は、違う。前に出ようとしなければいい。あの人は、そう教えた。震えが暴れるのは、踏み込もうとした瞬間だけだ。なら、踏み込まない戦い方を選べばいい。
一ノ瀬は、退がらなかった。踏み込みも、しなかった。ただ、教わった通り、間合いを"作った"。半歩、身体を斜めにずらす。左足は、前に出さない。剣は、振らない。伸びてきた牙の軌道の上に、震える切っ先を、そっと、置くだけ。
鈍い手応えが、腕の骨まで伝わった。
影の一体が、自分から切っ先に突っ込み、断末魔もなく、霧のように散った。獣の吐いた息の、饐えた臭いだけが、後に残った。
「……っ、はぁ、はっ」
残りの二体が、間合いを測って唸っている。一ノ瀬の手は、まだ震えていた。だが、剣は、落ちていない。
勝ちきれない。それは、分かっていた。三体を相手に、この身体で捌ききるのは、無理だ。だが――。
一ノ瀬は、ゆっくりと、後退を始めた。目を、影から切らずに。教わった通り、恐怖を抱えたまま、一歩ずつ。入口へ向かって。逃げるのではなく、退がる。その違いが、今の自分には、はっきりと分かった。
震えても、動けた。
その事実が、汗まみれの身体の芯に、小さな熱を灯した。
ダンジョンの入口で、俺は立っていた。
立って、いることしか、できなかった。
一ノ瀬が消えたと工房で気づいたのは、小一時間前だ。上着がない。鍵が開いている。それだけで、全部わかった。榊の言葉が、耳に蘇った。あんたが動かなくても、あの子は動く、と。
俺は、ここから先へ、一歩も入れない。無適性者の身体は、ダンジョンの気に触れた瞬間から、内側を締め上げられていく。数分で、立っていられなくなる。今も、入口の空気に触れているだけで、こめかみが脈打ち、胃の底が冷たい。
だから、待つしかない。
あの青い光の奥で、弟子が何と戦っていようと、俺は助けに行けない。声も届かない。もし今、あいつが致命的な間違いを犯していても、俺には、それを正す一言すら、届けられない。ただ、入口の岩壁に手をついて、あいつが自分の足で戻ってくるのを、祈るように待つ。それしか、できることがない。
――これだ。これが、俺の商売の、いちばん残酷なところだ。
どれだけ手を尽くして、身体を作り、恐怖に名前をつけ、型を仕込んでも。最後の一線、剣を握って魔物と対峙する、そのいちばん大事な瞬間に、俺はそこにいられない。勝つのも、死ぬのも、弟子ひとりだ。トレーナーは、リングの外にしか、立てない。まして俺は、リングの、そのまた外の、扉の前だ。
胃の底が、氷を飲んだように冷たかった。ダンジョンの気が、無適性者の身体を、内側からゆっくり締め上げてくる。それでも、俺は、この場を離れなかった。せめて、あいつが出てきた瞬間に、いちばん最初に見える場所に、いてやりたかった。
三年前も、俺はこうして、入口で待っていた。整ったと、自分に言い聞かせて、送り出して。あの日は、雨だった。傘も差さずに、俺は入口で、何時間も待った。そして、あの男は、戻ってこなかった。運び出されてきたのは、動かない身体だった。
あの光景を、俺の身体は、今も、この入口の湿った空気と一緒に、覚えている。
喉が、干上がっていた。
どれくらい、そうしていたか。
青い光の中に、影が、ひとつ。
ふらつく足取りで、汗にまみれた一ノ瀬が、剣を引きずるようにして、こちらへ歩いてくる。
生きて、いた。
全身から力が抜けて、俺は岩壁にもたれかかった。安堵が、遅れて、膝に来た。
「――この、馬鹿野郎が」
声が、掠れた。怒鳴るつもりが、うまく大きくならない。
「一人で、入るやつがあるか。何かあったら、俺は、指をくわえて見てることしか」
「霧生さん」
一ノ瀬が、入口の手前で立ち止まった。息を切らしながら、それでも、まっすぐに俺を見ていた。
「震えた。めちゃくちゃ、震えた。……でも、落とさなかった。一体、捌いた。退がって、生きて、戻ってきた」
青年の目に、涙とも汗ともつかないものが、光っていた。
「あんたの言ってたこと、本当だった。怖いままで、動けた」
俺は、何も言えなかった。叱るべき言葉と、褒めるべき言葉が、喉の奥で、ぶつかって、どちらも出てこない。近づいて、汗まみれの肩を掴んだ。震えているのは、こいつの手か、俺の手か、もう分からなかった。生きている。その体温が、手のひらから伝わってくる。それだけで、今は十分だった。
「怪我は」
「かすり傷だけだ。……ちゃんと、退がったから」
ちゃんと退がった。その一言が、どれだけの意味を持つか、こいつはまだ、半分も分かっていないだろう。逃げ出したのではなく、自分の意志で、間合いを支配して退いた。それは、恐怖に飲まれた人間には、絶対にできないことだ。
一ノ瀬は、剣を杖のようにつき、深く息を吐いてから、言った。
「次は、勝手にやらない。約束する。……だから、次は、本番だ。あんたの言う、"整った"状態で。あの鷺沢の前で、ちゃんと、勝つ」
その声には、もう、昨日までの焦りはなかった。無茶をやり切った人間の、静かな覚悟だけがあった。
俺は、こみ上げるものを飲み下して、ようやく、頷いた。
「……ああ。作ろう。お前が、抱えたまま勝てる型を」
初めて、俺は自分の口で、この青年の復帰戦を、認めていた。




