第6話 まだ、早い
「行く」
翌朝、工房に入るなり、一ノ瀬はそう言った。挨拶も、着替えもない。昨日の動画で火のついた目が、そのまま夜を越えてきたらしい。
「あの鷺沢の前で、俺は抜いてみせる。もう、決めた」
「まだ早い」
俺は、道具を片付ける手を止めずに答えた。即答だったせいで、青年の言葉が宙に浮いた。
「……なんでだよ。三十秒握れた。八割動けるって、あんたが言ったんだろ」
「特定の間合いなら、な」
俺は木剣を一本、床に転がした。
「握ってみろ。ただし、今から俺が、後ろで手を叩く。不規則にだ」
一ノ瀬は訝しげな顔をしながら、木剣を取り、構えた。俺はその背後に回り、間を置いて、手を打った。パン、と乾いた音が工房に響く。
その瞬間、切っ先が跳ねた。木剣が、床に転がる。青年自身が、いちばん驚いた顔をしていた。
「……っ、なんだよ、いきなり」
「これだ」
俺は手を下ろした。
「今の音は、たかが手拍子だ。魔物の咆哮でも、崩れる足場でもない。それでも、お前の身体は、あの日の"想定外"と勘違いして、勝手に警報を鳴らした。工房の中で、静かに、決まった間合いで握るのと、本番は違う。ダンジョンじゃ、音も、光も、足元も、仲間の悲鳴も、全部いっぺんに、お前の想定を裏切ってくる」
俺は、転がった木剣を拾って、青年の足元に戻した。
「今の一発で、お前の三十秒は、また〇秒に戻った。――これが、"特定条件で八割"と"実戦で発揮"の差だ。八割ってのは、条件が全部揃った、実験室の中の数字だ。本番は、実験室じゃない」
一ノ瀬は、戻された木剣を見下ろしたまま、動かなかった。反論の言葉を探して、見つからずにいる横顔だった。喉の奥で、何かを飲み込んでは、また探している。
「わかった、なら、その不規則な音にも慣れりゃいい。今日から、それも訓練に組み込めばいいだろ。一週間、いや、三日、詰めてやりゃ――」
「時間がいる」
「どれくらいだよ」
「わからない。二週間か、一月か。お前の身体が、いつ"裏切りに慣れる"かは、俺にも読めない。急かせば、かえって身体が固くなる。恐怖は、追い立てられると、深く潜るからな」
その返事に、青年の眉がつり上がった。
「読めないのに、まだ早いだけは、はっきり言うのかよ。おかしいだろ、それ。伸びてんのに、いつ伸びきるかは分からなくて、でも今はダメだって、それじゃ、いつまで経っても」
言葉が、途中で加速して、そして止まった。青年は、自分でも気づいたのだ。この理屈には、どこか、理屈で押し切れない芯があると。
「読めないのに、止めるだけは、迷わない」一ノ瀬は、低く繰り返した。「……あんた、変だぜ。俺の身体のことより、もっと別のものを、怖がってる顔してる」
図星だった。俺の慎重は、たしかに理屈の顔をして、理屈より頑なだ。それを、こいつは今、嗅ぎ当てた。壊れた人間ほど、他人の"隠した傷"の匂いには、鼻が利く。
俺は何も言い返さなかった。言い返せば、たぶん、声の温度でばれる。喉の奥にある名前が、こぼれ落ちる。
一ノ瀬は舌打ちして、木剣を壁際に立てかけ、談話コーナーのほうへ消えた。工房に、暖房の低い唸りと、遠くの車の音だけが残った。
夜、榊が機材の点検にやってきた。一ノ瀬が別室に引っ込んだのを見計らって、この男は、いつもの平らな声で切り込んできた。
「霧生さん。あんた、また抱え込んでるだろ」
俺は答えなかった。検査端末の数字を、意味もなく眺めるふりをした。
「データ上は、あの子はもう戦える。発揮効率は、僕が見てきた中でも、破格の戻り方だ。……なのに、あんたが戻さない。理由は、あの子の身体じゃない。あんたの側にある」
「榊」
「わかってるよ。踏み込みすぎた」
男は眼鏡を押し上げ、ふっと息を抜いた。
「ただ、僕は数字しか信じない人間でね。数字は、あの子はもう大丈夫だと言ってる。あんたの"まだ早い"を裏づける数字は、どこにもない。――あんたが怖がってるのは、あの子のことじゃないだろ」
工房の隅で、三年前の顔が、こちらを見た。整ったと言い聞かせて、送り出して、戻ってこなかった背中。あの日も、数字は「大丈夫」と言っていた。俺は、数字を信じて、間違えた。
「……数字が大丈夫だと言ったから、俺は一度、人を殺したようなものだ」
声が、自分でも聞き取れないほど低くなった。榊は、それ以上は訊かなかった。ただ、トランクの留め金を静かに閉じて、こう言い残した。
「あの子は、あの人じゃない。同じ壊れ方をしてるように見えても、別の人間だ。あんたが三年前に間違えたことを、今のあんたに繰り返させるほど、僕はあの子を安く見てない。……それだけは、覚えておいてくれ」
男は帰り際、一度だけ振り返った。
「それに、あんたが動かなくても、あの子は動くよ。ああいう目をした子は、いつだって、待ってなんかいない」
その言葉の意味を、俺はこのとき、まだ軽く聞き流していた。
別室では、一ノ瀬が壁にもたれて座り込んでいた。手の中で、角の欠けたバッジを、親指で何度もなぞっている。金属の冷たさが、指の熱を少しずつ奪っていく。
薄い壁の向こうで、霧生と榊が何か話しているのが、切れ切れに聞こえた。言葉までは拾えない。だが、あの人の声が、いつもより低く沈んでいるのだけは、分かった。俺のことで、あの人が、何かを苦しんでいる。それが、余計に息苦しかった。
――守られてる。俺は今、あの人に、守られてる。
その感覚は、温かくて、同時に、息が詰まった。一年前も、そうだった。リーダーに、仲間に、才能値の高いお前は下がってろと、守られて。守られて、後ろに転がされて。その結果、守ってくれた全員が、死んだ。俺だけが、剣を抜くこともできずに、生き残った。
守られているだけの人間は、いざというとき、誰も守れない。この身体は、それを、いちばん痛いやり方で覚えている。
バッジの欠けた角が、指の腹に食い込んだ。リーダーが最後に投げてよこした、この重さ。逃げろだったのか、託すだったのか。どちらにしても、俺は、受け取っただけで、何も返せていない。
あの人の言うことは、たぶん正しい。慎重で、優しくて、俺を大事にしてくれている。それは、分かる。だが――正しさに守られて、じっと動かずにいるあいだに、また、大事なものが指のあいだから、こぼれ落ちていく気がした。あのときと、同じように。
じっとしていることが、いちばん怖い。それは、あの人にも、言えなかった。
一ノ瀬は、そっと立ち上がった。膝が、少し鳴った。物音を立てないように、壁のフックから上着を掴む。
工房の窓の外で、遠くのクレーンの赤いランプが、点いて、消えた。夜のダンジョン区は、まだ人の気配がある。浅層なら、この時間でも入れるはずだ。
――一回だけ。確かめるだけだ。自分の身体が、本当に戻ってるのか。誰にも、告げずに。
扉の鍵を、音を殺して回した。冷たい夜気が、頬を刺した。




