第5話 その挑発、乗るのか
木剣の切っ先が、鏡に映ったまま、止まっていた。
「……三十秒、超えてる」
榊が端末から顔を上げて、めずらしく、少し驚いた声を出した。
一ノ瀬は木剣を握ったまま、正眼に構えている。手首はまだ、細かく震えている。だが、落とさない。切っ先の揺れは、最初の頃の暴れ方とは、もう別物だった。跳ねるのではなく、風に揺れる枝みたいに、震えながらも軸が通っている。
「四十秒」
榊が数える。
「五十――」
「っ、はは」
声が漏れた。一ノ瀬が、笑ったのだ。木剣を握ったまま、自分でも信じられないという顔で、口の端を持ち上げている。この二日で初めて見る顔だった。
「握れてる。俺、握れてるぞ、おい」
「知ってる。喋ると気が散るぞ」
俺がそう言った途端、切っ先がぶれて、木剣が滑り落ちた。乾いた音が、床に転がる。だが一ノ瀬は、悔しがらなかった。落ちた木剣を拾い上げて、また構える。その動作に、昨日までのためらいがない。
「もう一回」
「まだやるのか」
「やる。今、いい感じなんだよ」
この三日、やったことは地味だった。まず、震えが出る"間合い"の、その一歩手前で止まる練習。踏み込む直前で、いったん息を吐く。視線を前へ投げる代わりに、木剣の重心へ落とす。足の裏の、どこに体重が乗っているかを、声に出して確認させる。かかと、母指球、小指側。ひとつずつ。
初日は、たった三秒で落とした。次の日、十五秒。今日、三十秒を超えた。進んでは戻り、戻ってはまた進む。まっすぐには伸びない。だが、折れ線の全体は、確かに右上を向いていた。
俺は榊と目を合わせた。榊が、肩をすくめて端末を叩く。
「発揮効率、この三日で一・四倍。……霧生さん、あんた、相変わらず何やってんだか。俺には数字しか見えないよ。この数字を動かした"手品"が、まるで見えない」
「手品じゃない。あいつが、自分で握ってるだけだ」
その通りだった。俺は震えを消していない。恐怖に名前をつけて、息の吐き方を教えて、身体の置き場所を一つずつ直しただけだ。剣を握るのは、いつだって一ノ瀬自身だ。俺のできることは、そこまでだ。ダンジョンの中には、一歩も入れない。あいつが本番で剣を振るその瞬間、俺は、ただ祈ることしかできない。
昼、談話コーナーで、俺は温いお茶を二本、テーブルに置いた。一ノ瀬は、タオルで首の汗を拭いながら、まだ興奮が引かない様子だった。
「なあ。この調子なら、いつ戻れる。ダンジョン」
来た、と思った。
「まだだ」
「またそれかよ。三十秒握れたんだぞ。八割、動けるって、あんたも言ったろ」
「特定の間合いなら、な。条件が揃ってるときだけだ。本番のダンジョンは、条件を選べない。想定外の足音も、暗がりも、仲間の悲鳴も、全部一度に来る。今のお前を戻すのは、三十秒泳げるようになった奴を、いきなり荒海に放り込むのと同じだ」
一ノ瀬の顔が、露骨に曇った。
「じゃあ、いつだよ」
「お前が、整ったときだ」
「整うって、何だよ。誰が決めんだ、それ」
「俺が決める」
声が、また一段低くなった。自分でも分かる。この線引きだけは、譲れない。数字が戻ったからと言って、身体より先に本人を戻して――俺は一度、取り返しのつかない失敗をしている。その顔が、今日も胸の奥で、こちらを見ている。
一ノ瀬は何か言い返そうとして、口をつぐんだ。俺の声の温度が、いつもと違うことに、気づいたらしい。
そのとき、工房の扉が、遠慮がちに叩かれた。
七尾だった。仕事帰りなのか、支部の制服の上にコートを羽織っている。だが、その顔が硬い。手に、スマートフォンを握りしめていた。
「霧生さん。……これ、見てもらったほうが、いいと思って」
差し出された画面に、動画が再生されていた。どこかのイベント会場。マイクを持った鷺沢が、カメラに向かって、いつもの人好きのする笑みを浮かべている。
『――そういえば、面白い噂を聞きましてね。この街に、"壊れた探索者を再生する工房"があるんだとか。才能ゼロの、無適性者がやってるらしいですよ』
会場から、どっと笑いが起きる。
『いいじゃないですか。今度の公開実演、そこの"再生した探索者"とやらを、連れてきてくださいよ。俺が、直々に相手してやりますから。才能ゼロの再生ごっこが、本物に通用するのかどうか。……みんな、見たいでしょ?』
歓声。手を叩く音。鷺沢が、カメラに向かってウインクをした。動画は、そこで切れた。
工房が、静かになった。暖房の唸りだけが、低く響いている。
俺は、ゆっくり息を吐いた。名指しだ。しかも、逃げ場のない形で。断れば「やっぱり口だけ」と嗤われ、工房の噂は「才能ゼロの、口先だけの再生ごっこ」で固まる。だが乗れば、まだ三十秒しか握れない弟子を、あの荒海へ引きずり出すことになる。
鷺沢は、たぶん、そこまで計算している。あの男は、一ノ瀬の性格を知っている。挑発すれば、必ず食いつくと。そして、生煮えのまま出てきた一ノ瀬を、公衆の面前で叩き折る。二度と立ち上がれないように。それこそが、狙いだ。壊れた探索者が這い上がろうとする芽を、見せしめに潰す。才能至上主義の総本山にとって、それは、都合のいい興行なのだ。
最悪の誘い方をする男だ。
「……上等じゃねえか」
低い声がした。振り向くと、一ノ瀬が画面を睨んでいた。さっきまでの高揚とは、別の熱だった。拳が、震えていない。握りしめて、それでも、震えていなかった。
「やってやるよ。あいつの前で。俺は、終わってねえって」
「一ノ瀬」
「霧生さん」七尾が、俺のほうを見た。すがるような目だった。「その挑発……乗るん、ですか」
彼女の声には、はっきりと怯えがあった。窓口で、何百人も見送ってきた女だ。生煮えのまま現場に戻って、それきり帰ってこなかった者を、たぶん、この目でいくつも見ている。だから、分かるのだろう。今の一ノ瀬を出すことの、意味が。
三人の視線が、俺に集まる。乗りたがっている弟子と、案じている理解者と、その真ん中で。
俺は、すぐには答えなかった。代わりに、眉間に、深い皺が寄るのを感じた。
行かせたくない。まだ、早すぎる。三十秒だ。条件の揃った工房の中で、たった三十秒。それを、暗くて、広くて、悲鳴の飛び交うダンジョンで、通用させろというのは、無茶にもほどがある。頭では、答えは決まっている。断るべきだ。
だが、と俺は、一ノ瀬の顔を見た。震えていない拳。もう一度立ちたいと、はっきり口にした男の目。ここで俺が力ずくで止めれば、この火は、また消える。今度は、二度とつかないかもしれない。
――整うまでは、戻さない。
自分の信条と、目の前の火が、真っ向からぶつかっていた。
温くなったお茶の缶を、俺は握ったまま、いつまでも開けられずにいた。




