第4話 怖いままで、勝つ
「先に、種明かしをする」
訓練スペースの真ん中で、俺は木剣を一本、床に転がした。昨日と同じ場所だ。
「お前は、自分の震えを敵だと思ってる。直すべき故障、消すべき欠陥。違う」
一ノ瀬は胡座をかいたまま、俺を見上げた。まだ半分、疑っている目だ。
「震えは、お前の味方だ。お前を守ろうとして、身体が勝手に鳴らしてる警報だ。ただ、鳴らすタイミングを間違えてる。それだけ」
「……味方が、剣を落とさせんのかよ」
「火災報知器が、煙もないのに鳴ることがあるだろ。壊れてるんじゃない。感度が良すぎるんだ。お前の身体は、一年前の煙を、今もまだ嗅いでる。だから、剣を抜こうとするたびに、また同じことが起きるぞって、全力でブレーキを踏む」
「……ブレーキ、ね」
「昔、俺が診てた投手にな、同じ奴がいた。肘を一度壊してから、全力で腕を振れなくなった。医者はもう治ってると言う。本人も、頭では分かってる。だが、いざマウンドに立つと、腕が勝手に緩む。身体が、次に壊れる瞬間を、先回りして怖がってたんだ」
「そいつは、どうなった」
「治った。震えを消したんじゃない。震えたまま投げる方法を、一緒に探した。二年かかったがな」
二年、という数字に、一ノ瀬の眉が寄った。長い、と思ったらしい。俺はあえて、そこは訂正しなかった。近道を約束する奴を、こいつはもう嫌というほど見てきただろうから。
青年は、しばらく黙った。膝の上で、右手をぐっと握ったり開いたりしている。
「じゃあ、なんで俺だけ、鳴りっぱなしなんだよ。他の奴は、みんな普通に戦えてんのに」
「他の奴は、あの日、仲間を全員は失ってない」
その一言で、一ノ瀬の手が止まった。
「聞くぞ。あの瞬間、最初に怖いと感じたのは、どこからだ。目か、耳か、足か」
「……そんなの、覚えてねえよ」
「覚えてる。身体が覚えてる。目を閉じろ」
青年は舌打ちしたが、言う通りにした。まぶたの裏で、眼球がわずかに揺れている。あの日を、たぐり寄せているのだ。
「群れに、囲まれた。最初に、何が来た」
「……足音。地面の、下から。ぐらぐら来るみたいな。……あと、リーダーの声。名前を、呼ばれた」
「そのとき、お前の身体はどうした」
「前に、出ようとした。剣を、抜こうとして……そこで、」
言葉が、喉に詰まった。閉じたまぶたの下で、汗が一筋、こめかみを伝う。
「もういい。目を開けろ」
俺は静かに言った。ここから先は、抉らない。
「今、お前は自分で言った。足音。呼ばれた名前。前に出ようとした踏み込み。――お前の震えは、この三つが揃った瞬間にだけ、鳴る。ぼんやりした"恐怖"じゃない。引き金は、はっきりしてる」
一ノ瀬が、目を開けた。何かを、初めて外から眺めるような顔だった。
「怖さの正体が分からないと、人は、そいつと戦えない。相手が見えないからだ。だが、正体さえ分かれば、扱える。お前の怖さには、もう名前がついた」
「……名前がついたって、消えるわけじゃねえだろ」
「消さない」
俺は木剣を拾い、青年の前に差し出した。
「消さなくていい。怖いままで、勝つ。それを教える」
一ノ瀬は、俺の顔と木剣を、交互に見た。
「才能値ってのは、天井の高さだ。お前のは、化け物みたいに高い。だが、その天井は、一生変えられない。生まれたときに決まってる」
「知ってるよ、そんなこと」
「変えられるのは、そこじゃない。今のお前が、その天井の、どこまで手を届かせてるか――発揮効率だ。恐怖でフォームが縮こまってるぶん、お前は自分の才能の、二割も使えてない。逆に言えば、八割、まだ余ってる」
「八割……」
「昨日、榊が測った下の数字。あれは、今のお前の"届いてる高さ"だ。天井は化け物なのに、実際の出力は、新人と大差ない。世間は、その低いほうの数字だけ見て、お前を欠陥品と呼ぶ。だが俺に言わせりゃ、逆だ」
「逆?」
「これだけ天井が高いのに、二割しか使えてない――ってことは、伸びしろが、この業界の誰よりでかいってことだ。満杯の器は、もう一滴も入らない。お前の器は、まだ八割、空いてる」
青年の喉が、ゆっくり動いた。図星の合図じゃない。何か、これまで誰にも言われなかったものを、飲み込もうとする動きだった。この一年、こいつを刺し続けてきた"低い数字"が、今、初めて別の意味に裏返ったのだ。
「その八割を、一つずつ、取り戻す。今日は、握るだけでいい。震えても、落とさなきゃ勝ちだ」
一ノ瀬は、木剣に手を伸ばした。指が柄に触れる。
震えが、来た。手首から先が、跳ねようとする。
「息を止めるな。吐け。ゆっくりでいい」
青年は、歯を食いしばって、息を吐いた。細く、長く。震える指が、それでも柄を離さない。木剣の切っ先が、小刻みに揺れる。だが、床には落ちない。
「……っ、」
一秒。二秒。汗が顎の先から滴って、床のマットに小さな染みを作った。
「もう、いい」
俺が言うと、一ノ瀬は木剣を取り落とすように手放し、大きく肩で息をした。
「今、何秒だった」
「知らねえよ、そんな……」
「三秒だ。昨日まで、〇秒だった男が、三秒握った」
一ノ瀬は、自分の右手を、まじまじと見ていた。今しがた木剣を握っていた指を、まるで他人の手のように、ゆっくり開いたり閉じたりする。
「……握れた」
声が、ひとりごとみたいに漏れた。
「握れたよな、今。落とさなかった」
「落とさなかった」
俺は繰り返した。断定は、本人の口から出たときだけ、意味がある。
窓の外は、いつのまにか夕方だった。旧スポーツ地区の錆びた街灯が、ひとつ、ふたつと点り始める。工房の中は、暖房の低い唸りと、二人ぶんの呼吸だけが満ちていた。一ノ瀬は壁にもたれて座り込み、まだ荒い息を整えている。汗が引いていく肌に、この部屋の寒さが、じわりと戻ってきているはずだ。
「三秒って……たった、三秒だぜ」
青年が、天井を見上げて言った。自嘲のようで、そうではなかった。
「一年、俺は〇秒だった。何回やっても、指が跳ねて、剣が転がって。もう、二度と握れねえと思ってた。なのに」
言葉が、途中で溶けた。手の甲で、目のあたりを乱暴にこする。
「一秒を十秒に、十秒を一戦に伸ばす」俺はもう一度、同じことを言った。「やることは、それだけだ。魔法も、才能も、いらない。ただ、身体に、少しずつ思い出させる。怖くても、動いていいんだって」
一ノ瀬は、床に転がった木剣を見下ろしていた。信じられない、という顔と、信じたい、という顔が、そこで半分ずつ混じっていた。
「……もう一回、いいか」
その声に、初めて、湿った熱がこもっていた。
俺は頷いた。今日はもう、無理をさせるつもりはなかった。だが、その手が、自分から木剣へ伸びていく。震えるか、震えないか。俺は答えを言わずに、その指先を見ていた。




