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ダンジョンには一歩も入らない。"壊れて引退した探索者"だけを最強に立て直していたら、うちの卒業生でランキング上位が埋まった  作者: ヲワ・おわり


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第3話 数字は、嘘をつかない

 昨日、あいつは結局、扉を閉めて帰った。開けた隙間から冷えた風だけを入れて、身体は通さずに。

 俺は正直、五分五分だと思っていた。だから翌朝、工房の鍵を開けようとして、すでに中から灯りが漏れているのを見たとき、鍵を握る手が、ほんの少し止まった。

 扉を押すと、一ノ瀬は昨日と同じ壁際に座っていた。ただし今日は、缶のお茶を握ってはいない。膝に肘をついて、床の一点を睨んでいる。

「……何も、言うなよ」

 俺が口を開く前に、青年が先に釘を刺した。

「言わない」俺は照明をつけた。「ただ、今日は客が来る。俺の相棒だ」

 その相棒は、俺が湯を沸かし終える頃にやってきた。榊蓮。四十の割に姿勢のいい男で、片手に金属のトランクを提げている。中身は、ダンジョン診療医だった頃から手放さない検査機材一式だ。今どき、身体を測るなんて古い、と同業に鼻で笑われても、この男は測るのをやめなかった。

「へえ」榊は一ノ瀬をひと目見て、眼鏡の奥を細めた。「この子が、噂の。……霧生さん、また厄介なのを拾ったねえ」

「拾ってない。向こうから来た」

「同じことだよ」

 榊はトランクを床に置き、留め金を二つ、順に外した。硬い音が、静かな工房に妙に響く。一ノ瀬は、その音のたびに肩を小さく強張らせた。医者、という単語が、たぶんこいつの中では、いい記憶と結びついていない。全滅のあと、何度も検査台に載せられて、そのたびに「異常なし。原因不明」と突き返されてきたのだろう。


 榊は一ノ瀬を椅子に座らせ、腕にセンサーの帯を巻いた。指先にも、こめかみにも。青年は借りてきた猫みたいに固まっている。他人に身体を触られること自体、久しぶりなんだろう。榊の指が手首の内側に触れると、脈を探り当てるまでのほんの数秒、一ノ瀬は息を殺していた。

「動かなくていい。数えるだけだから」

 榊の声は、患者を安心させる訓練を受けた声だ。低くて、平らで、こちらの緊張を勝手に持っていく。俺にはない技術だった。

 小型の端末に、数字と波形が流れ始める。榊はそれを、値踏みするでもなく、ただ愛おしそうに眺めた。この男は本当に、数字が好きなのだ。人を裁くためではなく、人を弁護するために数字を使う。だから俺は、こいつと組んでいる。

「ふうん」

 やがて、榊は端末をくるりと回して、一ノ瀬に画面を向けた。

「見えるかい。上の段が才能値。君のは――ああ、これはすごいね。僕が現役で診た中でも、片手で数えるほどしかない天井だ。正真正銘の化け物」

 一ノ瀬の眉が、わずかに動いた。褒められ慣れた言葉のはずが、今は刃物みたいに刺さっている。

「で、下の段が実戦値。実際に現場で出せてる出力だ。君の場合は――」

 榊は、あえて言葉を切った。

「底辺だ。登録したての新人と、大差ない」

 青年の喉が鳴った。図星ではない。突きつけられた事実に、身体が反応したのだ。

「数字は、嘘をつかない」榊は端末を閉じた。「君の才能は本物で、今の君が弱いのも本物。両方とも、正しい。……で、この二つの数字のあいだにある、馬鹿みたいに広い隙間を埋めるのが」

 彼は、俺のほうへ顎をしゃくった。

「この、ダンジョンに一歩も入れない男の仕事なんだ。僕は数字を測るだけ。数字を裏切るのは、霧生さんの領分でね」

 一ノ瀬は、しばらく口を開かなかった。自分の身体が、初めて二つの数字に切り分けられて、目の前に置かれている。才能はある。だが、使えていない。そのあいだの距離を、こいつは今、初めて具体的な"広さ"として見たのだ。

 これまで、こいつはずっと、ひとつの数字で殴られてきたはずだ。才能値だけを掲げられ、それに見合わないお前は欠陥品だと言われ続けて。だが今、目の前の画面には、数字が二つある。天井の高さと、今の高さ。そのあいだの空白は、罪状じゃない。埋めるべき"のびしろ"として、そこにある。

 青年の指が、無意識に、下の段の数字に伸びた。触れる寸前で、止まる。まだ、自分のものだと信じきれない手つきだった。


 昼、榊が機材を片付けているあいだに、一ノ瀬が俺の袖を引くように言った。

「なあ。……いつ、戻れる。ダンジョン」

 その目には、朝より熱があった。数字を見せられて、火がついたらしい。

「まだだ」

 俺は即答した。

「整ってない奴を、俺は戻さない」

「整ってるかどうかなんて、誰が決めんだよ。実戦値だって、伸ばせば――」

「俺が決める。伸びた数字だけ見て戻すのが、一番危ない」

 言い方が、自分でも少し硬くなった。一ノ瀬がそれに気づいて、探るように俺を見た。

「……あんた、変だな」

「何が」

「他の奴は、みんな最初に言うんだ。お前はもう終わった、才能値が使いものにならねえって。あんたは、一度もそれを言わねえ。なんでだよ。なんで、俺を"終わった"って言わねえんだ」

 湯気の立つカップを、俺は両手で包んだ。答えは、喉の少し手前で止まっている。

 終わった、という言葉で、俺は一度、人を送り出した。整ってもいないのに、本人が戻りたがるから、数字が戻ったように見えたから、これで大丈夫だと自分に言い聞かせて。あの背中を、ダンジョンの入口で見送った。それきり、戻ってこなかった。

 その名前を、俺はまだ、この青年には言えない。


「昔の話をする」

 代わりに、俺はそう切り出した。夜だった。榊はとうに帰り、工房には俺たち二人だけだ。

「ダンジョンができる前、俺は選手を診てた。膝を壊した奴、肩を壊した奴。もう二度と走れないって言われた奴を、もう一度スタートラインに立たせる仕事だ」

「……戻せたのか」

「戻せた奴もいる。戻せなかった奴もいる。その違いは、才能じゃなかった。本人が、自分の身体をもう一度信じられるかどうか、だ」

 一ノ瀬は黙って聞いていた。窓の外で、工事のクレーンの赤いランプが、点いて、消えて、また点く。

「一番厄介なのは、故障そのものより、故障したあとの頭だ。一度、大事な場面で身体が裏切ると、脳がそれを覚え込む。次はもっと慎重に、もっと丁寧にって、身体に余計な指示を出し始める。その指示が、フォームを固くする。固いフォームが、また失敗を呼ぶ。……悪循環だ。お前の手の震えも、根っこは同じところにある」

 俺は湯呑みの底を、指の腹でなぞった。

「怖いのは、能力が落ちたからじゃない。お前の身体が、賢すぎるからだ。あの日の痛みを、忘れないでいてくれてる。忘れない身体を、無理に忘れさせようとするから、みんな失敗する」

「終わった、って言葉は、他人が決めることじゃない。お前の手が、まだ剣を握ろうとしてる。昨日、震えながら、それでも五回、握ろうとした。終わった人間は、握ろうともしない」

 長い沈黙のあと、青年は膝の上で拳を握った。それから、ゆっくりと頭を下げた。睨むでも、突っかかるでもない。

「……教えてくれ」

 初めて、素直な声だった。

 俺は頷いた。胸の奥の、三年前の顔が、今日は少しだけ静かにしていた。

「なら、まず――"あの瞬間"に戻るぞ。お前が一番、戻りたくない場所にな」


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