第2話 震えるのは、いつでもじゃない
翌朝、工房の扉を開けると、一ノ瀬はもう来ていた。壁にもたれて、缶の温かいお茶を両手で包んでいる。俺と目が合うと、ばつが悪そうに視線を逸らした。
「勘違いすんな。他に、行くとこがねえだけだ」
「わかってる」
俺は照明をつけ、床のマットの端を踏んで整えた。昨日、こいつが数えていた出口は、今朝も同じ位置にある。逃げ道が変わっていないと確かめて、青年はようやく壁から背を離した。
訓練スペースの真ん中に、木剣を一本置いた。
「まず、いつも通りにやってくれ。抜くつもりで、握るだけでいい」
一ノ瀬は木剣を見下ろした。しばらく動かなかった。それから、意を決したように腰を落とし、柄に手を伸ばす。
指が触れた。
その瞬間、手首から先が、別の生き物みたいに跳ねた。木剣が乾いた音を立てて転がる。青年は自分の右手を、憎らしげに左手で握り込んだ。
「ほら。これが俺だ」自嘲が、唇の端から漏れた。「才能値だけは一丁前。中身は、これ。笑えるだろ」
「笑わない。もう一回、やってくれ」
「……何回やっても同じだっつってんだろ」
「同じかどうか、俺が見る。お前は、感じることに集中しろ」
青年は舌打ちして、もう一度しゃがんだ。震える。転がる。もう一度。転がる。四回目で、木剣が壁まで滑っていった。一ノ瀬の額に、汗が滲んでいる。まだ十一月だ。この部屋は寒い。それでも汗が出るのは、身体が全力で何かと戦っている証拠だった。
俺は少し位置を変えて、正面から、横から、背後から、その手を見た。呼吸を数え、肩甲骨の動きを追い、視線がどこへ逃げるかを記録していく。握る前の一瞬、こいつの視線は必ず床の一点に落ちる。そこから顔を上げて、剣の切っ先が向くはずの前方――そこに視線が移った刹那、決まって喉が締まり、息が止まる。震えは、その直後に来ていた。
五回目で、俺は片手を上げた。
「止めていい。――わかった。お前の震え、"いつでも"じゃないな」
一ノ瀬が顔を上げた。
「何を、わかったってんだよ」
「握るだけなら、実は一瞬、止まってる。震えが本気で暴れ出すのは、お前が左足を前に出して、間合いを詰めようとした、その瞬間だ。踏み込みと、視線が前へ向いた同時。そこで、決まって呼吸が止まる」
青年の喉が、こくりと動いた。昨日と同じ、図星の合図だ。
「身体が壊れてるなら、握った瞬間から震える。だが、お前は違う。ある特定の"間合い"にだけ、身体が全力でブレーキをかけてる。――お前を、守ろうとして」
休憩に、俺は温いお茶を二本、談話コーナーのテーブルに置いた。窓の外は晩秋の高い空で、遠くで工事のクレーンが一本、ゆっくり回っている。
「一年前だろ。何があった」
俺は前置きなしで訊いた。回り道をすると、こういう人間はかえって身構える。
一ノ瀬は缶を握ったまま、長いこと黙っていた。お茶の缶が、手の中でわずかに凹んだ。
「……パーティが、全滅した」
声が、平坦だった。感情を全部、外に出さないように押さえた平坦さだ。
「中層で、想定外の群れに囲まれて。……俺だけ、生き残った。俺が、一番才能値が高かったからだって、あとで言われた。強い奴が生き残るのは、当然だって」
缶を握る指に、力がこもる。
「救援は、来なかった。近くに、ゼニスの部隊がいたのに。……あとで聞いた。あいつら、『才能値の低いパーティに手を貸しても割に合わない』って、見送ったんだと。損得で。俺たちは、損得の"損"のほうだった」
その名前を、俺は口の中で転がした。ゼニス。昨日、ロビーで才能ゼロと嗤った男の、後ろにいる看板だ。だが今は、そこには触れない。青年の傷は、まだ組織の話に耐えられる硬さじゃない。
テーブルの上に、いつのまにか、あの欠けたバッジが置かれていた。青年の親指が、その欠けた角をなぞっている。
「これ、リーダーのだ。あいつが最後に、俺のほうに投げてよこした。逃げろって意味だったのか、託したつもりだったのか、今も、わからねえ。……受け取ったのに。受け取っただけで、俺は、剣を抜くこともできずに、後ろに転がって、それで」
言葉が途切れた。缶を持つ手が、剣を握ったときと同じ角度で、震え始めていた。角の欠けたバッジが、テーブルの上で小さく音を立てる。
「あいつら全員、俺より才能値は低かった。低いから死んだって、世間はそう言う。だったら、一番高かった俺が生きてんのは――何なんだよ。ご褒美か。罰か」
「一ノ瀬」
俺は静かに言った。断定は、いつも最後まで取っておく。だが、ここは言わなければならない。
「お前の震えは、身体の故障じゃない。あの瞬間が――あの、剣を抜けば誰かがまた死ぬかもしれない、あの間合いが、お前の身体にそのまま残ってるんだ。手は、正しく怖がってる。ちゃんと、お前を止めようとしてる」
だから、と俺は続けた。
「怖がるのをやめさせる話じゃない。怖がったまま、それでも動ける身体の使い方を、これから探す。お前の手が覚えてる怖さは、消さなくていい。抱えたまま、勝てる」
その一言で、青年は椅子を蹴って立ち上がった。
「――勝手に、人の傷を抉るな」
声が裏返っていた。バッジを乱暴に握り込んで、玄関へ向かう。俺は追わなかった。追えば、余計に閉じる。
三和土で靴に足を突っ込む一ノ瀬の背に、いつの間に来ていたのか、七尾が声をかけた。今日は非番なのか、コート姿だった。
「一ノ瀬さん」
青年は振り向かない。
「私ね、窓口で……たくさん見送ったんです。手続きだけして、そのまま消えていく人を。何人も。壊れて、才能値が使いものにならなくなって、それでも、まだやれるはずだって顔をしてた人。私は判子を押して、保険の説明をして、お大事にって言うだけで」
七尾は、そこで一度、唇を噛んだ。
「あのとき、一言でも、どこか紹介できてたら、って……今でも、名前を、覚えてるんです。何人も。だから、あなたには、消えてほしくない。それだけ」
彼女は、それ以上言わなかった。ただ、俯いて、自分のコートのボタンを意味もなく留め直した。指先が、少し不器用だった。
一ノ瀬は靴を履き終えた。ドアノブに手をかける。回さない。
その手が、動かないまま止まっていた。震えているのか、迷っているのか、外からは見分けがつかない。俺は椅子に座ったまま、缶のお茶をひとくち飲んだ。
「明日も、工房は開けてる」
背中には、届いたかもしれないし、届かなかったかもしれない。青年は何も言わずに、ドアを、ほんの少しだけ開けた。冷たい外気が、細く床を這ってきた。落ち葉の匂いと、遠くの車の音が、隙間から入ってくる。
だが、扉はそこで止まったまま、しばらく開かなかった。開けた分だけの隙間に、一ノ瀬は身体を通そうとしない。ノブを握った手だけが、行くとも戻るとも決めかねて、そこに残されていた。
俺は缶を置いて、その背中が、自分で答えを出すのを待った。




