第1話 才能ゼロが、何しに来た
「才能ゼロが、何しに来た?」
支援ギルドの受付ロビーに、その声はよく通った。実況で聞き慣れた声だ。鷺沢恭弥。ゼニス所属、探索者ランキングの常連。今日はカメラも回っていないのに、周りに人を集める話し方が身に染みついている。
「そいつ、一ノ瀬だろ。才能値だけは化け物だったのに、手が震えて剣も抜けねえって? もう終わってんだよ。引退届なら、俺が代わりに書いてやろうか」
カウンターの前で、若い男が肩を丸めていた。俺より一回り若い。二十そこそこか。灰色のパーカーの袖から覗く右手が、机の縁を握って白くなっている。
俺は自販機の前で缶コーヒーを買いかけた手を止めた。あの握り方には見覚えがある。守ろうとして、逆に固まった手だ。何かを二度と落とすまいとして、力を入れる場所を間違えている。昔、同じ手をいくつも見た。マウンドに立てなくなった投手。リングに上がれなくなった選手。あの頃はまだ、俺にそれを直す仕事があった。
「一ノ瀬さん、あの……」
窓口の女が立ち上がりかけた。名札に七尾とある。この支部で、壊れて消えていく探索者を何百人も見送ってきた顔だ。彼女が俺のほうを見て、口を動かした。声には出さず、来てくれ、と。
仕方ない。缶を戻して、俺は歩き出した。
「悪いな、話に割り込んで」
鷺沢が振り返る。俺の全身をひと舐めして、鼻で笑った。スーツでもなく、探索者の装備でもない。ジャージの上にくたびれたブルゾン。無適性者だと、見る奴が見ればすぐわかる。
「なんだ、あんた。ここの職員でもねえだろ」
「才能、ね」
俺は男の言葉を拾い直した。
「俺はその言葉が、一番嫌いなんだ」
ロビーの空気が、少しだけ止まった。一ノ瀬という青年が、初めて顔を上げた。前髪の奥の目が、汚いものでも見るように俺を睨んでいる。
「……あんたも、俺を見に来た口か」
「いや。手を見に来た」
俺は一ノ瀬の右手を指した。答えは待たない。
「あんた、剣を抜くときだけ震えるだろ。歩くのは平気だ。荷物も持てる。だが、鞘に手をかけた瞬間だけ、指がいうことをきかなくなる」
青年の喉が、こくりと動いた。図星のときの喉の動きだ。
「その震えには、理由がある。弱さじゃない」
「――は?」
鷺沢が笑いを引っ込めた。ロビーの視線が、いつのまにか俺たちに集まっている。
「おいおい、無適性者が名探偵ごっこかよ。才能ゼロには才能ゼロなりの――」
「一個だけ聞く」
俺は鷺沢を無視して、一ノ瀬に言った。
「もう一回、あの場所に立ちたいか」
青年は答えなかった。ただ、パーカーのポケットの中で、何かを固く握り込んだのがわかった。ロビーの蛍光灯の下で、その拳だけが小さく震えていた。
「……減らず口の無適性者が」鷺沢が吐き捨てた。「せいぜい壊れたおもちゃで遊んでろ。どうせ、また一人消えるだけだ」
靴音を鳴らして、男は出ていった。ドアの向こうで、迎えの誰かに軽口を叩く声が遠ざかる。七尾がカウンターの陰で、長く息を吐いたのが見えた。
「……すみません」彼女は俺にだけ聞こえる声で言った。「あの人、才能値が届かなかった子を、何人も窓口で見送ってきて。だから、つい――呼んでしまって」
「いい。呼んでくれて助かった」
嘘ではなかった。壊れた探索者は、たいてい誰にも見つけてもらえないまま、この窓口を最後に消えていく。俺のところに辿り着く前に。
工房までは、ギルドから歩いて十五分ある。旧・実業団スポーツ地区。八年前の大穿孔で人も金も探索者産業へ流れ、がらんと空いた練習場が、俺には安く借りられる。夕方の風は乾いて、錆びた自転車置き場の匂いがした。
「先に言っておく」
俺は前を向いたまま話した。一ノ瀬は三歩遅れてついてくる。
「俺は戦えない。ダンジョンに入ると、数分で立ってられなくなる無適性者だ。剣も魔法も、何ひとつ使えない」
「……はぁ?」
背後で足音が乱れた。
「なんだそれ。戦えねえ奴が、なんで俺を直せるってんだ。どうせ俺は、手の動かねえ欠陥品だろ。あんたに見世物にされるのは――」
「見世物にはしない。俺の商売は、目立たせることじゃない」
「じゃあ何なんだよ」
「昔、選手を現役に戻す仕事をしてた。膝を壊した奴、肩を壊した奴、それから――怖くて身体が動かなくなった奴を、な」
風が、乾いた落ち葉を歩道の端へ吹き寄せた。
「ダンジョンができて、その仕事は要らなくなった。今はみんな、ステータスとやらの数字で人間を測る。身体の使い方なんて、古い話だ。だから、誰も診なくなった」
「お前、さっき段差で、左足だけ避けたな」
言葉が止まった。
「歩道の割れ目。右足はまたいだのに、左は半歩ずらして踏まなかった。無意識だ。一年、そうやって左の踏み込みを庇ってきた身体の癖だ。剣を抜く踏み込みと、同じ側だろ」
振り返ると、一ノ瀬が道の真ん中で足を止めていた。自分の左足を、初めて見る他人の足みたいに見下ろしている。
「……なんで」
「言ったろ。手を見に来たって」
工房の扉を開けると、油と古いマットの匂いがした。かつて格闘技の選手がここで汗を流していた。今はただ、鏡張りの壁と、俺が持ち込んだ道具が並んでいるだけだ。
一ノ瀬は入口で突っ立ったまま、部屋を見回した。値踏みするみたいに、鏡と、床のマットと、隅に積んだ木剣に視線を這わせる。逃げ道を数える目だ。追い詰められた人間ほど、部屋の出口を先に確認する。
「そこ、立ってていい。座れとは言わない」
俺が言うと、青年の肩から、ほんのわずかに力が抜けた。
「診るのは、時間がかかる」俺はパイプ椅子を二つ引き出した。片方は座らずに、背もたれを前にして跨ぐように置いた。「震えの元がどこにあるか、突き止める。焦らなきゃ、必ず見える」
そこまでは、いつもの調子で言えた。
「で、いつ戻すかは――そのあとだ。整うまでは、戻さない」
自分でも、そこだけ声が一段低くなったのがわかった。整うまでは戻さない。その言葉を口にするたび、胸の奥で、三年前の顔がひとつ、こちらを見る。俺は椅子の背を握って、それをやり過ごした。
一ノ瀬は気づかなかったらしい。俯いて、ポケットから何かを取り出していた。手のひらに載っているのは、金属のバッジだった。角が一つ、欠けている。それを親指でなぞる仕草が、祈りに似ていた。
「なあ」
青年が、ようやく顔を上げた。睨みでも、諦めでもない目だった。
「本当に、直るのか。これ」
俺は頷いた。頷いてから、自分の言葉に、ほんの少しだけ遅れが出たのを感じた。
直せる。直せるはずだ。――前に、そう思って、間違えた一人がいる。
一ノ瀬には見えていない翳りを、俺は缶コーヒーでも飲むみたいに、飲み下した。
「明日から始める。工房は、朝から開けてる。来るかどうかは、お前が決めろ」
一ノ瀬は返事をしなかった。ただ、欠けたバッジをポケットに戻す手つきが、来たときより少しだけ、丁寧になっていた。




