第23話 診られる側
「あんたが、俺を、信じたから。今の、俺がいる」
朝、工房に来るなり、一ノ瀬が、俺の前に、立った。まっすぐな目で。かつて、投げやりに、自分を嗤っていた青年の、面影は、もう、ない。
「あのとき、あんただけが、俺を"終わった"って、言わなかった。震える手を、見て、それでも、勝てる型が、あるって、言い切った。……その、あんたが。今度は、六車さんを、信じられねえのか。信じるのが、怖いのか」
「一ノ瀬」
「今度は、あんたが、俺たちを、信じる番だ」
言葉が、胸に、刺さった。
「先輩の、言う通りだよ」
音羽が、腕を、組んで、続けた。突っかかる口調は、そのままに。だが、中身は、違っていた。
「あたしだって、そうだった。才能があれば、我流で十分だって、突っぱねてた、あたしを。あんたは、追いかけてこなかったけど、待っててくれた。……あの痛みが、また連れ戻すって。ちゃんと、見抜いてた。なのに、なんで、六車さんのことは、自分で、決められないの」
「あんたは」
一ノ瀬が、低く、言った。
「壊れた奴を、診るのは、得意だ。だが、壊れた、自分は、診られてねえ。……あんた、今、久遠さんの件で、震えてる自分を、放ったらかしにしてる。それ、あんたが、いつも、俺たちに、するなって、言ってることじゃねえのか」
俺は、言葉を、失った。
その通りだった。俺は、こいつらの、心の奥の、恐怖を、言葉にしろと、言い続けてきた。震えを、見ないふりをするな、と。なのに、俺自身が、久遠の影に、震える自分を、見ないふりをして、宙ぶらりんの決断に、蓋を、していた。
「……俺も」
やっと、声が、出た。
「整って、なかったのか。ずっと」
誰にも、言えずに、三年、抱えてきた恐怖。それは、久遠の件が、"終わって"いなかったからだ。俺自身が、あの入口に、立ったまま、動けずに、いた。壊れた探索者と、同じだった。俺も、再生を、待っている、一人だった。
妙な、気分だった。いつも、俺は、診る側にいた。相手の、歩き方や、呼吸から、隠した震えを、拾う側に。それが、今は、逆だ。一ノ瀬が、俺の、決断の鈍りを、拾っている。かつて、俺が、この青年の、隠した震えを、歩き方一つから、見抜いたように。今度は、こいつが、俺の"歩き方"の、乱れを、言い当てている。
弟子に、診られている。その居心地の悪さと、同時に。どこか、ほっとしている自分が、いた。ずっと、一人で、抱えてきたものを。こいつらが、今、こじ開けようと、してくれている。
「あんた、いつも、言うだろ」音羽が、ぶっきらぼうに、付け足した。「痛みは、敵じゃない。身体を、守ろうとする、警告だって。……あんたの、その怖さも、同じじゃないの。あんたが、本気だから、出てる、警告でしょ。無視、すんなよ」
自分の言葉を、弟子に、返される。これほど、こたえる、返し方は、なかった。
昼、榊が、金属トランクを、開けて、端末を、机に、置いた。
「六車の、全データだ。見てくれ」
画面には、数字が、並んでいた。六車の、身体の、あらゆる測定値。
「筋力の、低下は、年齢相応。反応速度は、確かに、若手に、劣る。……だが、それだけだ。関節にも、内臓にも、致命的な、衰えは、ない。支える役に、回るなら、身体は、十分に、応える。数値は、嘘を、つかない。彼は、もう、戦える」
榊は、眼鏡を、押し上げた。
「前に、話したろ。僕が、診療医時代に、数字だけ見て、一人、見誤ったって。検査値が、正常だからと、突き返した患者だ。……だから、僕は、あんたと、組んでる。数字が、拾えないものを、あんたが、拾うから。あのときは、数字が、その人を、切り捨てる側に、あった」
彼は、端末を、俺のほうへ、押し出した。
「だが、今度は、逆だ。数字は、六車が、戦えると、言ってる。あんたの、迷いを、否定してるのは、こっちのデータだ。……今度は、数値が、あんたの背中を、押してる。それでも、踏み込めないなら、あんたが、乗り越えるべきなのは、六車の問題じゃない。あんた自身の、久遠だ」
この、数字しか信じないと、うそぶく男が。その数字を、人を、送り出すために、使っていた。切り捨てるためじゃなく。
「……ああ」
俺は、端末の、数字を、見た。六車の身体は、応える、と、それは、告げていた。あとは、俺が、決めるだけだ。
夕方。
俺は、机の、いちばん奥の引き出しを、開けた。
久遠の、写真を、取り出す。夏の、屋外。白い歯を見せて、笑う、若い男。
俺は、その顔を、しばらく、見つめた。窓から差す、冬の夕日が、色褪せた紙を、橙色に、染めている。
この写真を、俺は、ずっと、罰のように、しまい込んでいた。開けるたびに、胸が、抉られるのを、確かめるために。だが、今日は、違った。
「……お前を、送り出したとき。俺は、お前の焦りに、引きずられた。お前を、見てなくて、自分の、応えたい気持ちばかり、見てた。それが、間違いだった」
写真の中の久遠は、屈託なく、笑っている。
「六車は、違う。あいつの身体は、応える。数字も、俺の眼も、そう言ってる。今度は、焦りでも、怯えでもなく。ちゃんと、あいつを、見て、決める」
言葉にして、初めて、気づいた。俺が、久遠に、してやれなかったのは、これだ。あいつの、焦りを、いったん、脇に置いて。あいつの身体が、本当に、応えるのかを、ちゃんと、見ること。俺は、あのとき、それを、しなかった。応えたい、という、自分の焦りで、目が、曇っていた。
三年、遅かった。だが、この目を、俺は、六車の前で、取り戻す。久遠にできなかったことを、六車に、する。それが、たぶん、あいつへの、いちばんの、詫びになる。
俺は、写真を、引き出しに、戻した。今度は、蓋を、するためじゃない。ちゃんと、しまうために。指が、震えていないことに、自分で、驚いた。
そして、訓練スペースへ、行った。
六車が、盾を、構えて、一ノ瀬と音羽の、後ろに、立っていた。俺の足音に、大きな身体が、振り返る。
「六車さん」
俺は、まっすぐ、その目を、見て、言った。
「あんたは、整ってる。……行こう。あんたの、復帰戦だ」
六車の、大きな身体が、ぴくりと、動いた。それから、ゆっくりと、その顔に、二十年ぶりのような、探索者の目が、戻ってきた。
「……ああ」
男が、盾を、握り直した。その手の甲に、太い、血管が、浮いた。二十年、前衛で、仲間を、守ってきた腕だ。速さは、失った。だが、この腕が、抱えてきたものは、消えていない。
一ノ瀬と音羽が、その両脇で、得物を、構えた。三人の呼吸が、そろっていく。ばらばらだった、壊れた探索者たちが、今は、一つの、隊形になっていた。
俺は、ダンジョンには、入れない。剣も、魔法も、盾も、握れない。だが、この三人を、信じて、送り出すことは、できる。久遠のときに、できなかったことを。今度こそ。
俺の手は、もう、震えていなかった。




