第21話 置いていかれた名前
支援ギルドの、資料室は、暖房が効いていなかった。
七尾が、机の上に、古い紙束を、そっと、置いた。角が茶色く焼けた、探索者の登録抹消記録だ。彼女の指が、その中の一枚を、押さえている。爪の先が、白くなるほど、強く。
「久遠は――ゼニスに、"才能不足"で、切られた探索者でした」
俺は、その一行から、目を、離せなかった。
登録名、久遠。所属、クラン・ゼニス。抹消事由の欄に、機械で打たれた、乾いた文字。〈才能値、契約基準に、満たず〉。それだけだった。人ひとりの、行き場が、消えた事実が、そんな、事務的な一行に、収まっていた。
「三年半前です」
七尾が、掠れた声で、続けた。
「ゼニスは、そのころ、規模を、大きくしていて。才能値の基準を、引き上げたんです。基準に、届かなかった探索者を、まとめて、契約解除した。……久遠さんも、その一人でした。ダンジョンで、一度、大きな失敗をして。それで、才能値の割に、実戦が伴わない、と。切り捨てられた」
俺は、記憶の底の、あの顔を、思い出していた。工房の扉を、叩いたときの、久遠。世間から、身体を診る仕事なんて時代遅れだと、切り捨てられた俺と。才能が足りないと、切り捨てられた、あいつ。似た者同士だった。どちらも、いらないと、言われた側だった。
紙の、焼けた匂いが、鼻の奥に、届いた。何百人分もの、抹消記録が、棚に、詰まっている。その一つ一つが、誰かの、終わった一日だ。ゼニスにとっては、基準を、一段、上げただけのこと。その、たった一段の段差で、こぼれ落ちた人間が、この部屋に、紙の重さになって、積もっている。
あいつも、この匂いの中の、一枚だったのか。俺の知らないところで、機械に、名前を、打ち込まれて。〈基準に、満たず〉と、判子を、押されて。
「切られたあと、久遠さんは、どこにも、行けなかった。才能値の紙一枚で、次の受け入れ先も、決まる世界です。一度"基準以下"の烙印を押されたら、どこも、拾わない。……そうやって、あの人は、あなたのところへ、流れ着いたんです」
拾ったんじゃない。流れ着いた。その言い方が、胸に、刺さった。あいつが、俺を頼ってきたのは、恩だけじゃなかった。もう、ほかに、行く場所が、なかったからだ。
「私、こういう人を、何百人も、窓口で、見送ってきました」
七尾は、紙束に、目を落としたまま、言った。
「才能値が、基準に届かないって、それだけで。何も、悪いことは、してないのに。ただ、生まれつきの数字が、足りないだけで。……そのたびに、何もできなくて。あのとき、一言でも、どこか紹介できていたら、って。その名前を、私は、今でも、全部、覚えてます」
彼女の声が、震えた。窓口の向こうへ消えていった顔の数だけ、この人は、悔いを、抱えている。俺が久遠を抱えているように。
この人の負い目は、俺のものと、形が、違う。俺は、久遠を、送り出して、失った。この人は、誰も、送り出せないまま、見送ってきた。手を伸ばせずに、通り過ぎさせた顔の数だけ、悔いが、積もる。どちらも、同じ、寒さの中に、立っている。
「だから」
七尾が、顔を、上げた。目の縁が、赤い。
「もう、増やしたくないんです。見送る名前を。……だから、私は、調べました。霧生さんの、過去に、踏み込むことに、なっても」
俺は、しばらく、黙っていた。窓の外で、乾いた風が、看板を、鳴らしている。
ずっと、喉の奥に、封じてきた。三年、誰にも、話さなかった。話せば、俺が、あいつを、送り出したことが、言葉になって、確定してしまう気がして。
だが、この記録が、目の前にある以上。もう、逃げられない。
「……ありがとう」
俺は、その紙を、指で、なぞった。
「久遠のことは、俺が、話す。あんたが、掘り起こしてくれたなら、なおさらだ」
工房に、戻ると。
妨害の影は、確かに、伸びていた。素材の棚が、いくつか、空いている。取引を、断られた分だ。だが、工房の空気は、思ったより、沈んでいなかった。
中央で、六車が、若手二人に、何か、指図していた。
「音羽。回復薬は、こっちの箱に、まとめとけ。数が減ってるんだ。どこに何本あるか、いつでも、言えるように、しとかねえと、いざってときに、困る」
「……はいはい。細かいなあ、六車さんは」
口では、突っかかりながら、音羽の手は、素直に、動いている。一ノ瀬は、六車に言われて、傷んだ防具を、より分けていた。
大柄な男が、工房の、細々とした実務を、束ねていた。誰が、何を、どれだけ持っているか。何が、足りないか。全体を、把握して、配る。前衛で、二十年、仲間の位置を、見続けてきた男の、目配りだった。
妨害は、じわじわと、効いていた。防具の補修材が、来ない。回復薬の、卸値が、上がった。取引先が、一つ、また一つと、すまなそうに、手を引いていく。真綿で、首を、絞めるやり方は、派手さがない分、地味に、こたえる。放っておけば、いずれ、工房は、干上がる。
だが、その細る資源を、六車は、一本残らず、把握していた。どの薬を、誰の訓練に、いつ回すか。何を、後回しにできるか。限られた物を、いちばん要るところへ、配る。前線で、限られた補給を、やりくりしてきた男の、身についた勘だった。
「霧生さん」
六車が、俺に、気づいた。訥々とした声で、言う。
「勝手に、いろいろ、動かして、悪いな。だが、こういう、締まってねえところが、目に、ついちまってな。放っとけなくて」
「いや」俺は、首を振った。「助かる。……あんたがいると、工房が、締まる」
六車の、大きな身体が、少し、こわばった。それから、ふ、と、口元が、ゆるんだ。
「そうか。……俺は、まだ、役に、立てるんだな」
その一言を、確かめるように、噛みしめて、男は、また、棚のほうへ、戻っていった。斬り込む速さは、若手に、抜かれた。だが、この、全体を回す力は、若手の誰にも、ない。役割を、変えただけで、この男は、居場所を、取り戻していた。
資源は、細っている。だが、工房は、ばらけていなかった。六車という、要が、いる。
その夜。
皆が、片づけを終えて、ストーブの周りに、集まったころ。
俺は、缶のお茶を、一人ずつに、配ってから、口を、開いた。
「聞いてほしい、話がある」
一ノ瀬が、顔を、上げた。音羽が、缶を、口元で、止めた。六車が、姿勢を、正す。榊は、眼鏡の奥で、静かに、俺を、見ている。七尾も、隅の椅子で、膝を、そろえた。
工房に、ストーブの、低い音だけが、残った。缶の底で、温くなったお茶が、ゆれる。
この三年、俺は、こいつらに、久遠のことを、何一つ、話してこなかった。整うまでは戻さない、という口癖の理由も。決めきれずに、迷う癖の、根っこも。全部、あの雨の日の、入口に、置いてきたままだった。
言葉にすれば、それは、もう、俺一人の秘密では、なくなる。だが、こいつらは、俺の"戻さない"に、命を、預けている。ならば、その裏側にあるものを、知る権利が、ある。
「昔、俺が、最初に、手をかけた探索者の、話だ」




