第19話 中途半端が、一番きつい
「やっぱり、な」
六車が、椅子から、腰を上げた。
二日、通ってきた。だが、俺は、その二日、いちばん肝心なことを、言えずにいた。あんたは、戻せる、の一言を。
「あんたにも、俺は、"終わった"んだ。名門の再生屋が、二日、俺を見て、それでも、はっきり言えねえ。……もう、いい。わかったよ。時間を、取らせたな」
「六車さん、待ってくれ」
「待って、どうなる」
男の声に、初めて、苛立ちが、滲んだ。訥々とした口調のまま、それでも、抑えきれない、熱があった。
「なあ、霧生さん。あんた、優しいよ。俺を、傷つけまいと、はっきり言わずに、いてくれてる。それは、わかる。……だがな、中途半端が、いちばん、きついんだ。終わったなら、終わったって、はっきり言ってくれ。諦めろって、背中を、押してくれ。宙ぶらりんのまま、期待だけ、持たされるのが、いちばん、こたえるんだよ」
その言葉は、俺の、胸を、抉った。
その通りだった。俺の逡巡は、優しさなんかじゃない。ただ、自分が、断定する責任から、逃げているだけだ。その逃げが、この男を、宙ぶらりんの、いちばんきつい場所に、縛りつけている。
そのとき、機材を片付けていた榊が、口を挟んだ。
「一つ、言っておくとね」
男は、端末を、六車のほうへ、向けた。
「あんたの身体、この二日、測らせてもらった。……数字の上では、衰えて、ないよ」
六車が、眉を、寄せた。
「筋力も、反応速度も、四十手前の探索者としては、むしろ、良好だ。少なくとも、"才能が枯れた"なんて数字は、どこにも、出てない。あんたの踏み込みが遅れるのは、身体が、衰えたからじゃない。……別に、理由がある」
「別の、理由?」
六車の目が、俺のほうを、向いた。すがるような、目だった。
「じゃあ、なんで、だ」男の声が、震えた。「なんで、俺は、若手に、遅れる。なんで、昔みたいに、飛び込めねえ。身体が、衰えてないってんなら、これは、なんなんだよ」
その問いの答えを、俺は、たぶん、もう、握っていた。榊のデータと、この二日、俺が横目で見てきた六車の動き。それを、繋げれば、答えは、そこにある。踏み込みが遅れるのは、身体の問題じゃない。この男が、"斬り込み役"という、若い頃の役割に、しがみついているからだ。速さで勝負する役に、しがみついているから、速さで劣ることが、そのまま、無価値に、思えてしまう。本当は、この男の強みは、もう、別のところに、移っているのに。
わかっている。わかっているのに。
ここだ。いつもの俺なら、この榊のデータを受けて、その"別の理由"を、言い当てている。あんたの問題は、衰えじゃない。役割の――。喉まで、出かかっている。だが、その先が。
もし、間違えたら。この男を、"戻せる"と言って、また。
久遠の背中が、六車に、重なる。
「……もう少し、時間を、くれ」
俺の口から、出たのは、また、その言葉だった。
六車の顔から、すっと、光が、消えた。
「……そうか」
男は、静かに、コートを、掴んだ。
その背中を、止めたのは、俺じゃなかった。
「六車さん」
一ノ瀬だった。音羽も、その隣に、立っている。
「あの人は、簡単に、人を諦めねえ。……俺が、証拠だ」
一ノ瀬が、自分の右手を、掲げた。
「一年前、俺は、手が震えて、剣も抜けなかった。誰もが、終わったって言った。だが、この人だけは、言わなかった。震えたまま、勝てるって、教えてくれた。今の俺は、その、証拠だ」
「あたしも」音羽が、続けた。「才能崩れって、笑われてた。独りで、身体を壊してた。頼るのは負けだって、殻に、閉じこもってた。でも、この人が、フォームを、一から、直してくれた。あたしの才能は、枯れてなんか、なかった。ただ、使い方を、間違えてただけ。……たぶん、あんたも、同じ。この人は、あんたを、諦めてなんか、ない。ただ今、ちょっと、あんたと関係ないところで、何かを、抱えてるだけ。それは、あたしたちにも、わかるよ。だって、あたしたちも、この人に、抱えてたもの、全部、見てもらったんだから」
六車は、二人の、若い顔を、見比べた。突っかかるように喋る少女と、まっすぐな目をした青年。どちらも、二十歳前後の、若さだ。その若さが、今、三十八の、諦めた男の前に立って、必死に、何かを、繋ぎ止めようとしている。
「あんたら……こんな、諦めた中年の、何が、そんなに」
「他人事じゃ、ねえからだ」一ノ瀬が、短く言った。「昨日の俺たちが、あんただ。今日のあんたが、明日の、次に来る誰かだ。それだけだよ」
この二人は、かつて、"終わった"と言われた側だ。その二人が、今、こうして、立って、喋って、誰かを、引き止めている。それ自体が、この工房の、何よりの、実績だった。数字より、俺のどんな言葉より、雄弁な。
「……もう一日だけ」
六車が、絞り出すように、言った。
「もう一日だけ、いてやる。あんたら二人の、顔に免じて、な」
コートを、椅子の背に、掛け直す。その、大きな背中に、俺は、頭が、上がらなかった。俺が、言えなかった一言を、俺の育てた弟子たちが、代わりに、言ってくれた。
夜。
六車と音羽が帰り、工房に、俺と一ノ瀬だけが、残った。
青年は、しばらく、黙って木剣を拭いていたが、やがて、手を止めて、まっすぐ、俺を、見た。
「霧生さん」
「なんだ」
「あんた、何を、抱えてる」
逃げ道を、塞ぐ、まっすぐな問いだった。かつて、俺が、こいつに、投げたのと、同じ種類の問い。回り道を、しない問い。
「あの日から、あんた、おかしい。冴島って男と、話したあの日から。……俺は、あんたに、全部、さらけ出した。傷も、恥も。だから、今度は、俺が、聞く番だ。あんたの震えは、どこにある」
俺は、木剣を拭く手を、止めた。
こいつの言う通りだった。俺は、こいつらに、さらけ出せと言いながら、自分は、いちばん深い傷を、ずっと、引き出しの奥に、しまい込んでいた。
長い、沈黙のあと。
俺は、ゆっくりと、口を、開いた。
「……昔、俺は、一人」
そのときだった。
工房の、固定電話が、けたたましく、鳴った。こんな時間に。
俺は、受話器を、取った。相手は、名乗らなかった。ただ、事務的な、冷たい声が、一方的に、告げた。用件だけを、感情を、一切、乗せずに。
――ゼニスからの、通告だった。
語りかけようとした、俺の過去の、いちばん深い一言は。その冷たい声に、喉の途中で、押し戻された。
受話器を置いた俺の顔を見て、一ノ瀬が、ただ事ではないと、察したらしい。
「霧生さん。……何て?」
俺は、すぐには、答えられなかった。
巨大な影が、いよいよ、この小さな工房に向かって、動き出した。その足音が、たった今、受話器越しに、聞こえた気がした。




