第18話 諦めた男
その男は、工房の前を、もう三度、行き来していた。
真冬の、一月の朝だった。吐く息が、白い。大柄な、中年の男が、色褪せた探索者ジャケットの上から、コートを羽織って、工房の看板を、遠くから、睨むように見ては、踵を返し、また戻ってくる。手には、封筒を、握りしめている。角が、汗で、よれていた。引退届だ。あの、握り方には、見覚えがある。もう提出するしかない、と自分に言い聞かせて、それでも、出しきれずにいる手だ。
俺は、窓から、それを見ていた。だが、いつもなら、すぐに動く足が、今朝は、なぜか、重かった。
外に出て、声をかけたのは、七尾だった。
「六車さん。……せっかく来たんですから。一度だけ、話だけでも」
「……いや、いい」
男の声は、低く、訥々としていた。言葉を、探しながら、話す。
「悪いな、七尾さん。あんたが、心配してくれるのは、ありがたい。だが、俺は、もう、いいんだ。三十八だ。もう、いい歳だよ。若いのに、抜かれて、当然の歳だ」
「六車さん」
「才能が、枯れたんだ」
男は、ふ、と、自嘲した。
「昔は、名門クランの、斬り込み役だ。いちばん先に、敵の懐へ、飛び込む。誰より、速く、踏み込んで、陣形を、こじ開ける。それが、俺の、売りだった。誇りだったよ。……それが、今じゃ、どうだ。若手が、次々、上がってきて。あいつらの才能値は、俺より、ずっと高い。踏み込みも、速い。俺は、斬り込み役のくせに、誰よりも、遅い。この前なんか、俺が一歩、踏み込みが遅れたせいで、後ろの子が、危うく、囲まれかけた」
男の、節くれだった手が、膝の上で、握られた。
「先陣を切るための、斬り込み役が、誰より、遅くなった。……それが、いちばん、こたえる。俺が前で、もたつくと、かえって、後ろの、みんなが、危ない。だったら、いないほうが、いい。そういう、ことだろ。動きが、鈍った。踏み込みが、遅れる。才能ってのは、そういうもんだ。歳とともに、天井が、下がる。もう、戻らねえよ」
諦めが、この男の、全身に、しみついていた。一ノ瀬の、尖った絶望とも、音羽の、突っかかる強がりとも、違う。もっと、静かで、厚い、諦めだった。長い時間をかけて、少しずつ、自分に言い聞かせて、固めてきた諦め。それを、剥がすのは、いちばん、骨が折れる。
七尾が、俺のほうを、見た。助けを、求める目で。
工房の中に、六車を、どうにか、招き入れた。
男は、勧めた椅子に、遠慮がちに、腰を下ろした。大柄な身体が、縮こまっている。
「診るのは、時間がかかる」
俺は、いつもの、口上を、口にした。
「焦らなきゃ、必ず、見える。あんたの、本当の――」
そこで、言葉が、止まった。
いつもなら、この続きを、俺は、迷わず言える。あんたの、本当の問題が、見える、と。そして、男の動作を、観察し始める。呼吸を、視線を、筋の連動を。冴えた眼で、"才能が枯れた"という思い込みの、その裏を、暴いていく。
だが、今朝は。
六車の身体を、見ようとするたびに、別の身体が、重なった。三年前の、久遠の背中。整ったと、俺が判断して、送り出した、あの背中。もし、また、俺が、判断を、誤ったら。この男を、"戻せる"と、言って、もし、それが、間違いだったら。
眼が、曇る。冴えない。診断の、いちばん芯にある、断定の勇気が、出てこない。
「……霧生さん?」
訝しげな、六車の声で、我に返った。
俺は、いつのまにか、言葉を、途切れさせたまま、立ち尽くしていた。こんなことは、初めてだった。
訓練スペースの隅で、木剣の手入れをしていた一ノ瀬が、その様子を、じっと、見ていた。
「霧生さん」
あとで、六車が手洗いに立ったとき、一ノ瀬が、低く、言った。
「いつもと、違う。あんた、今日、あの人の身体、ちゃんと、見てなかった。……いや、見ようとして、見れてなかった」
図星だった。この青年は、俺に、身体の使い方を教わった。だからこそ、俺の"眼"が、今、機能していないことに、誰よりも早く、気づく。かつて、俺が、一ノ瀬の隠した震えを、歩き方一つから見抜いたように。今度は、こいつが、俺の"歩き方"の、乱れを、見ている。
「あんたが、俺を診てくれたときは。……一目で、俺の左足の癖まで、当てた。段差を、避けた、って。あんな人が、今日は、あの人の、何も、言わねえ。……なんか、あったのか」
「……気のせいだ」
俺は、そう言った。だが、その声は、自分でも、力がなかった。
一ノ瀬は、それ以上、追ってこなかった。ただ、納得していない目で、俺を、見ていた。師と弟子の、見る側と見られる側が、少しずつ、入れ替わり始めている。その気配を、俺は、居心地悪く、感じていた。
夕方。
その日の面談は、ずっと、こんな調子だった。
俺は、六車の身体を、見るには見た。だが、いつものように、断言が、できなかった。あんたの問題は、これだ、と、指を差せない。焦らず、もう少し、時間をかけて、と、もっともらしい理由を並べて、判断を、先へ、先へと、送っていた。
久遠と六車が、重なって、剥がれない。あの、静かな諦め。もし、俺が、"戻せる"と言って、それが、また、間違いだったら。もし、また、俺の判断で、一人。……眼が、その先へ、踏み込むのを、拒む。
六車は、そんな俺を、しばらく、黙って、見ていた。
やがて、大柄な男は、のそりと、立ち上がった。
「……なあ、霧生さん」
訥々とした声が、低く、響いた。
「あんた、さっきから、何も、言わねえな。俺の身体を、見て。……見て、何も、言えねえってことは、そういう、ことだよな」
「六車さん、それは」
「いいんだ」
男は、力なく、笑った。諦めに、慣れた男の、笑い方だった。
「わかってたよ。あんたみたいな、目利きが見ても、やっぱり、俺は、もう、"戻らねえ"って、ことなんだろ。名門の再生屋が見ても、言葉に詰まる。……それが、答えだ。俺は、終わった。ちゃんと、はっきり、そう言ってもらえて、かえって、すっきりしたよ」
違う。
そうじゃない。俺が言葉に詰まったのは、あんたが終わってるからじゃない。俺のほうが、久遠の影で、踏み込めなくなってるだけだ。あんたの身体は、たぶん、まだ――。
だが、その、いつもなら、迷わず口をつく否定が、喉の途中で、つかえて、出てこなかった。断言する勇気が、今の俺には、ない。
「あんたも」
六車が、コートを掴んで、背を向けた。
「あんたも、俺を、諦めるのか」
その問いに。
いつもなら、即座に「諦めない」と返すはずの言葉が、俺の口から、出てこなかった。
工房に、沈黙だけが、重く、落ちた。暖房の唸りだけが、やけに、大きく聞こえる。
諦めない、と、なぜ、言えない。いつもの俺なら、考えるより先に、口が動いていたはずの、その一言が。
六車の、諦めきった背中を、俺は、引き止められないまま、ただ、見ていることしか、できなかった。




