第17話 しまい込んだ、一枚
浅層の空気を、青白い光が、切り裂いた。
音羽の右手から放たれた光球が、三体の魔物を、まとめて呑み込む。爆ぜる音。獣たちが、霧になって、散った。
控室のモニターで、それを見ていた俺は、小さく、頷いた。
撃ち切ったあと、音羽は、肩で息をしていなかった。かつて、一発詠唱するたびに、右肩を押さえて膝をついていた少女が、今は、連続で三発撃って、けろりとしている。
「出力、独学時代の、倍」
隣で、榊が、端末を見て、口笛を吹いた。
「しかも、負荷は、あの頃の、四割以下だ。……才能崩れ、なんて言った奴の顔が、見たいね。この子は、崩れてなんか、いなかった。ただ、道が、詰まってただけだ」
音羽の詠唱は、見違えていた。
かつて、右肩だけで、無理やり光を絞り出していた頃の、あの、歪んだフォームは、もう、どこにもない。足の裏で、地面を掴み、腹の底から吸った息を、背中、肩、腕、指先へと、一本の管で、流していく。力みが、どこにも、溜まっていない。だから、痛みも、出ない。同じ才能値から、こんなにも、違う光が、生まれる。
派手な特訓は、何もしなかった。ただ、詰まっていた道を、一本ずつ、通しただけだ。それだけで、才能崩れと嗤われた少女は、化けた。
音羽の傍らには、一ノ瀬がいた。復帰戦とはいえ、初めての実戦だ。何かあれば、すぐ動けるように、先輩として、付き添っている。だが、その出番は、なかった。音羽は、一人で、危なげなく、撃ち切った。かつて、一ノ瀬が、震えを抱えて初めての一撃を捌いたのと、同じ場所で。壊れ方は、正反対だった。だが、二人とも、才能を、"使えなかった"人間だ。その使い道を、取り戻した。それだけで、こうも、変わる。
「……先輩」
戦いを終えた音羽が、一ノ瀬を、振り返った。
「あたし、ちゃんと、出せたよね」
「ああ。完璧だった」
音羽は、ふ、と、力を抜いて、笑った。それから、ぽつりと、言った。
「……頼るのも、悪くないね」
あの、頼ることを負けだと言って、独りで壊れかけていた少女の口から、その言葉が出るまでに、どれだけの距離があったか。俺は、モニターの前で、静かに、それを、噛みしめた。
その夜、工房は、賑やかだった。
二人目の再生成功だ。榊が、どこからか、旨いものを買ってきて、テーブルに広げている。音羽は、一ノ瀬に、詠唱のコツを、得意げに語っていた。ついこの間まで、突っかかってばかりだった子が、今は、当たり前みたいに、この輪の中にいる。
工房が、"一人"の集まりから、"仲間"に、変わっていく。その光景こそ、俺が、いちばん見たかったものだ。
なのに。
俺の心は、どこか、晴れなかった。
冴島の言葉が、耳の奥に、貼りついて、剥がれない。慈悲か、贖罪か。この子らの笑顔を見るたび、その問いが、影のように、差してくる。俺は、こいつらを、救っているのか。それとも、久遠を救えなかった穴を、こいつらで、埋めているだけなのか。
「霧生さん」
ふと、榊が、隣に来ていた。手には、缶のお茶。声を、落としている。祝いの輪から、少し離れた場所で。
「冴島に、何を、言われた」
俺は、答えなかった。缶の表面の、水滴を、指で潰す。
「あんた、あの試合のあとから、ずっと、上の空だ。……勝ったんだぞ。二人目も、再生した。なのに、あんたの顔は、まるで、何かを、失くしたみたいだ」
榊は、数字しか信じない男だ。だが、その数字で、いちばん近くから、俺を、見てきた男でもある。だから、ごまかしは、利かない。
「……昔の話を、掘り返されただけだ」
俺は、それだけ、言った。
「掘り返されて、埋め戻せないのか」
「……ああ。今は、まだ」
榊は、しばらく、黙っていた。それから、缶のお茶を、ひとくち飲んで、ぽつりと、言った。
「僕もね、昔、数字だけ見て、人を、間違えたことがある。診療医だった頃だ。……検査値が全部、正常だったから、大丈夫だと、突き返した患者がいた。数字は、嘘をつかない。そう、信じてた。だが、数字が、正常でも、その人が、抱えてたものは、別にあった」
この男が、自分の過去を話すのは、珍しかった。
「だから、僕は、あんたと、組んでる。数字を測るのは、僕の仕事だ。だが、数字が見落とすものを、拾うのが、あんたの仕事だ。……あんたが、そこで、迷ってどうする」
榊は、缶を、俺の手に、押しつけて、「無理すんな」と、短く言い残し、輪へ戻っていった。この男の、不器用な気遣いだった。
夜が更け、皆が帰ったあと。
俺は、一人、工房の、机の、いちばん奥の引き出しを、開けた。
普段は、開けない引き出しだ。開けないように、しまい込んでいた。
その底から、一枚の、古い写真を、取り出す。
色の褪せた、一枚だった。夏の、屋外。トレーニング場の、隅。俺の隣で、白い歯を見せて、笑っている、若い男。まだ、探索者になる前。陸上の、選手だった頃の、久遠だ。
肩を、俺が診て、故障から、復帰させた。医者に、もう競技は無理だと言われた肩だった。それを、俺が、一年かけて、走れるところまで、戻した。あのとき、こいつは、大げさなくらい、喜んで。あんたのおかげで、また走れる、あんたは魔法使いだ、と、この、屈託のない顔で、笑った。魔法なんかじゃない、ただ、身体の使い方を、直しただけだ、と俺が言っても、久遠は、聞かなかった。あんたのは、魔法だよ、って。
その恩を、久遠は、ずっと、覚えていた。だから、ダンジョンができて、探索者になって、そこで壊れたとき、迷わず、俺のところへ、来た。世間が、身体を診る専門知なんて時代遅れだと、切り捨てたあとも。あんたなら、また、治せるはずだ、と。あの、同じ顔で、俺を、頼ってきた。
その、まっすぐな信頼が。あの頃の俺には、重かった。応えなければ、という焦りに、なった。この男の期待を、裏切れない。もう一度、魔法使いで、いなければ。……その焦りが、俺の眼を、曇らせた。
俺は、その期待に、応えたかった。だから、焦った。数字が、九割まで戻ったのを見て、これで大丈夫だと、自分に、言い聞かせて。本当は、こいつの心の、いちばん深いところが、まだ、あの日を怖がっていたのに。見て、見ないふりを、した。
そして、雨の日、俺は、こいつを、ダンジョンの入口で、見送った。
それきり、この笑顔は、戻ってこなかった。
写真の中の久遠は、今も、屈託なく、笑っている。俺が、間違えたことも、知らずに。
「……久遠」
その名を、俺は、久しぶりに、声に出した。三年、ずっと、喉の奥で、封じてきた名前だった。
誰もいない工房に、その音は、吸い込まれて、消えた。
窓の外は、真冬の、乾いた闇だった。冴島が、なぜ、久遠を知っているのか。その答えの、輪郭が、闇の向こうで、静かに、こちらを、見ている気がした。




