第16話 感傷は、人を殺す
会場の、控室の一つ。
勝利の歓声は、扉一枚隔てた向こうで、まだ続いている。だが、この部屋の中だけは、水を打ったように、静かだった。
冴島迅牙は、俺に、椅子を勧めた。自分のもののように、この部屋を使っている。俺は、座らなかった。
「見事な"演出"でした」
冴島は、穏やかに、口を開いた。声を荒げない。荒げる必要が、この男には、ない。
「才能ゼロと嗤われた青年が、才能の権化を、技術で打ち破る。観客は、泣いて、喝采する。……いい物語だ。人の心を、よく、掴んでいる。ですが」
男の目が、すっと、細められた。
「感傷は、いずれ、人を殺しますよ」
俺は、答えなかった。ただ、この男の言葉の、刃の在り処を、探っていた。
「才能値というのは、残酷なようで、慈悲深い、仕組みなんです」冴島は、続けた。「早いうちに、その人間の天井を、教えてくれる。ここまでだ、と。無駄な努力を、無駄な期待を、させずに済む。……あなたが今日やったことは、その慈悲を、踏みにじる行為だ。届かない天井に、もう一度、手を伸ばさせる。夢を、見させる。それが、どれだけ、残酷なことか」
「淘汰は、優しさだと」
「ええ。合理は、優しさです」
男は、迷いなく、頷いた。
「弱い個体を、無理に戦線へ戻せば、より多くが、死ぬ。だから、線を引く。才能値という、公平な物差しで。誰にも、私情を、挟ませない。数字は、贔屓をしない。生まれも、コネも、見た目も、関係ない。ただ、天井の高さだけで、公平に、振り分ける。……これほど、平等な仕組みが、他に、ありますか」
冴島は、まるで、教師のように、諭す口調だった。
「私は、何万という探索者の、命を預かっている。感傷で、その全体を、危険に晒すわけにはいかない。あなたの"再生"は、美しい。ええ、否定はしません。だが、一人を救う美談の裏で、その一人が、いつか、周りを巻き込んで死ぬ。整わないまま、戻ってしまった、その一人が。……あなたには、その責任が、取れますか。救った、その先まで、見届けられますか」
その問いは、俺の、いちばん痛いところを、掠めていた。だが、俺は、顔には、出さなかった。まだ。
筋は、通っていた。憎らしいほど、通っていた。この男の理屈は、悪の理屈じゃない。この社会が、まさに、それで回っている、正論だ。
「あんたの言うことは、正しい」
俺は、静かに言った。
「才能値は、天井を教える。合理は、多くを守る。……全部、正しい。だが、一個だけ、あんたには、抜け落ちてるものがある」
「ほう」
「才能で人を測る奴には、壊れた人間は、直せない」
俺は、冴島の目を、まっすぐ見た。
「あんたは、天井しか、見てない。だが、壊れた人間ってのは、天井の問題じゃない。天井までの、道が、塞がってるだけだ。その塞がりは、数字には、映らない。恐怖も、フォームの歪みも、役割のミスマッチも、あんたの物差しじゃ、測れない。……測れないものを、あんたは、"無い"ことにする。だから、直せない。俺が拾ってるのは、あんたが、"無い"ことにして、捨てた奴らだ」
俺は、一歩、踏み出した。
「それにな。あんたの平等ってのは、生まれた瞬間に、天井で人を、区切る平等だ。努力しても、工夫しても、その天井は変わらない。だったら、下に区切られた奴は、どうすりゃいい。生まれつき、割に合わないって、そう言われて、黙って消えろってのか。……それは、平等じゃない。ただの、選別だ。数字の顔をした、選別だよ」
「では、伺いますが」冴島は、静かに切り返した。「その、あなたが救った青年。彼が、次のダンジョンで、恐怖に飲まれて、今度こそ、仲間を巻き込んで死んだら。あなたは、なんと言うんです。それでも、救ってよかった、と?」
「……救うことに、絶対の保証は、ない。あんたの言う通り、失敗も、ある」
俺は、認めた。認めた上で、言った。
「だが、最初から、天井で切り捨てて、誰も救わない世界と、失敗を承知で、それでも道を探す世界と。どっちに、俺は立つ。……俺は、後者だ。それだけだ」
冴島は、しばらく、俺を見ていた。それから、ふ、と、笑った。
「相変わらず、ですね」
相変わらず。
その一言が、部屋の温度を、変えた。
「あなたは、以前にも、一人、"壊した"。違いますか」
心臓が、跳ねた。
「焦って、戻して。整ってもいない人間を、数字が戻ったからと、送り出して。……そして、失った。あの雨の日のように」
息が、止まった。
なぜ、この男が。なぜ、雨のことまで。俺の、いちばん深い場所の、いちばん柔らかい傷を、この男は、正確に、指で、押していた。
冴島は、俺の凍りついた顔を、観察するように、眺めていた。そして、満足げに、微笑んだ。獲物の、急所を、見つけた顔だった。
「よく、考えることです。あなたのやっていることが、慈悲か、それとも――ただの、贖罪か」
男は、扉に手をかけて、一度だけ、振り返った。
「工房を、畳む気になったら、いつでも、連絡を。あなたの、その"眼"だけは、私も、惜しいと思っている。ゼニスに来れば、正当な待遇で、迎えますよ。……壊れた人間を拾うような、割に合わない仕事は、もう、やめて」
「断る」
俺は、即答した。
「言ったろ。才能で人を測る奴には、壊れた人間は直せない。あんたのところに行った時点で、俺は、俺の眼を、失う」
冴島は、答えず、ただ、薄く笑って、コートの裾を翻し、部屋を出ていった。靴音が、遠ざかっていく。
部屋に、一人、残された。
なぜ、あの男が、久遠のことを、知っている。雨の日のことまで。……いや。考えるまでも、なかった。答えは、もう、喉の奥で、冷たく、固まっていた。だが、それを、今、言葉にする勇気は、俺には、なかった。
会場の外。
夜風が、火照った身体を、冷やしていく。勝ったはずの一ノ瀬が、俺の様子に、気づいて、駆け寄ってきた。
「霧生さん? どうした、顔色が」
「……なんでもない」
俺は、背を向けた。
「勝ったな。よくやった。……音羽が、待ってる。行ってやれ」
「霧生さん」
「なんでもない、と言った」
声が、思ったより、硬く出た。一ノ瀬が、口をつぐむ。
一ノ瀬は、それ以上、追ってこなかった。だが、去り際に、こちらを一度、振り返ったのが、気配で分かった。あの日、俺が、一ノ瀬の隠した傷の匂いを嗅ぎ当てたように――今度は、こいつが、俺の何かに、気づき始めている。師と弟子の、立ち位置が、少しずつ、ずれ始めていた。
俺は、夜空を、見上げた。冴島の言葉が、耳の奥で、反響していた。慈悲か、贖罪か。
ずっと、蓋をしてきた問いだった。壊れた探索者を拾うたび、俺は、久遠を、もう一度、救い直しているつもりだったのかもしれない。だとしたら、こいつらは、俺の贖罪の、道具なのか。……そんなはずは、ない。そう思いたいのに、冴島の指が、その確信の、いちばん脆いところを、押していた。
ポケットに突っ込んだ手が、自分でも気づかないうちに、微かに、震えていた。
三年前の、あの雨の匂いが、今、この冬の夜気の中に、はっきりと、蘇っていた。




