第14話 憎しみで、抜くな
「あの日の、座標記録。……残って、ました」
支援ギルドの、記録室だった。埃と、古い紙の匂いがする。七尾が、色褪せた探索ログの束を、机に広げた。彼女の指先が、少し、震えている。
「探索者の位置情報は、ダンジョン内の中継器を通して、支部のサーバーに、自動で記録されるんです。一年経っても、消えずに残ってる。……誰も、掘り返さなかっただけで」
俺と、一ノ瀬は、その紙の束を、覗き込んだ。
数字が、並んでいる。時刻。座標。パーティの識別番号。無味乾燥な、ただの記録。だが、七尾が、赤いペンで、二つの点を、丸で囲んだ。
「これが、一ノ瀬さんのパーティの、最後の座標。そして、こっちが……鷺沢さんのチームの、同時刻の座標です」
二つの丸は、驚くほど、近かった。
「距離にして、直線で、四百メートル。中層のこの区画なら、鷺沢さんたちの機動力で、五分もかからない。……救援可能圏内、なんてものじゃ、ない。すぐ、そこ、です」
一ノ瀬が、息を、飲んだ。
「しかも」七尾は、別のログを、指した。「鷺沢さんのチームは、この救援要請が飛んだ直後、座標を、逆方向に、動かしてます。一ノ瀬さんたちから、遠ざかる方向に。……つまり、要請を、受け取った上で、引き返した。知らなかった、じゃ、ない。知っていて、背を、向けた」
記録は、嘘をつかない。
無線で聞いた、あの計算の声。あれは、一ノ瀬の、記憶の中だけの、証言だった。だが今、その記憶を、冷たい数字が、裏づけていた。四百メートル。五分。逆方向。――見殺し。疑いが、確信に、変わる音が、聞こえた気がした。
一ノ瀬は、その丸を、見つめたまま、動かなかった。顔から、血の気が、引いていく。ずっと、心のどこかで、思い込みかもしれない、俺の勘違いかもしれない、と、逃げ道を残していたのだろう。だが、その逃げ道は、今、塞がれた。仲間は、見殺しにされた。それは、もう、動かない。
「……そう、か」
やっと、絞り出した声は、震えていた。
「本当に、あいつは。……知ってて、俺たちを」
言葉が、続かなかった。青年は、記録室の壁に、拳を、叩きつけた。鈍い音が、響く。七尾が、びくりと、肩をすくめた。
「すみません」七尾が、俯いて、言った。「もっと、早く、掘り返せてたら。……私、探索者を、何百人も、窓口で見送ってきたのに。記録が、こんなに近くに、残ってたのに。誰も、見なかった。誰も、あの子たちの死を、"おかしい"って、思わなかった。才能値が低いパーティが、全滅した。それで、片づけて。……それが、当たり前だと、思われてたんです。この、業界では」
彼女の声に、こもっていたのは、ただの同情じゃなかった。もっと、根の深い、怒りだった。値札で人を測る世界そのものへの、静かな怒り。この人が、なぜ、俺を最初に信じたのか。その理由の、いちばん奥にあるものを、俺は、初めて、はっきりと見た気がした。
一ノ瀬は、壁に額を押し当てたまま、肩を、震わせていた。泣いているのか、怒っているのか、外からは、分からなかった。たぶん、本人にも、分からなかっただろう。
「……あいつら、いい奴らだったんだ」
うわ言のように、青年が、呟いた。
「才能値が低いって、それだけで。それだけで、あんな、紙切れの数字みたいに、消された。誰にも、おかしいって、言ってもらえずに」
工房に戻っても、一ノ瀬の目は、据わったままだった。据わっているが、危うい。
「潰す」
低い声で、青年は言った。
「明日、あいつを、公開の場で、完膚なきまでに、潰す。仲間の分も、俺の一年の分も、全部、あいつの顔に、叩き込んで――」
「一ノ瀬」
俺は、その言葉を、遮った。
「憎しみで、抜くな」
青年が、俺を、睨んだ。据わった目のまま。
「……なんで、だよ。あんたも、聞いただろ。あいつが、やったこと。憎んで、当然だろ」
「当然だ。憎め。いくらでも、憎んでいい」
俺は、静かに、続けた。
「だが、憎しみを、剣に乗せるな。それだけは、するな。お前の震えは、恐怖を、道具に変えて、乗り越えた。だが、憎しみは、道具にならない。憎しみは、視野を、狭くする。間合いを、崩す。呼吸を、浅くする。お前が、この一月半かけて、直してきたものを、全部、逆戻りさせる。昨日、あいつの前で、拳を握ったとき、お前の手が、また震えたのを、覚えてるか。あれが、答えだ」
一ノ瀬の、据わった目が、わずかに、揺れた。
「お前が、あいつに勝つ理由は、憎しみじゃない」
俺は、青年の胸を、指で、軽く突いた。
「考えてみろ。憎しみで殴りかかって、もし、負けたら、どうなる。あいつは、こう言うぞ。ほら見ろ、才能値の低い奴の、逆恨みだ。負け犬が、吠えただけだ、ってな。お前の憎しみは、あいつの理屈を、補強するだけだ。仲間の死が、"逆恨みの動機"に、成り下がる。……それが、お前の、望む決着か」
一ノ瀬の、据わった目が、揺れた。
「お前を、値札で測って、見殺しにした、あの理屈。才能値が低いから、助ける価値がない。あの、腐った理屈を、間違ってたって、証明することだ。才能じゃなく、整えた力で。憎しみじゃなく、冷静な制御で。あいつの才能に、お前の"効率"で、真正面から勝つ。そうやって初めて、あいつの理屈は、根っこから、崩れる。才能値が低いと切り捨てられた奴が、才能値の高い奴を、正々堂々、打ち負かす。それ以上の、反証はない」
俺は、少し、声を落とした。
「殴るのは、簡単だ。だが、それじゃ、あいつと、同じ土俵に、降りることになる。力で、格付けする土俵に。お前は、そこで戦うな。お前が立つべきなのは、あいつが、一度も、上がったことのない土俵だ。それが、お前の勝ち方だ。それが、死んだ仲間への、一番の手向けだ」
長い、沈黙があった。
工房の窓の外で、冬の風が、乾いた音を立てて、通り過ぎた。
やがて、一ノ瀬の肩から、ゆっくりと、力が抜けた。据わっていた目に、正気の色が、戻ってくる。
「……仲間の、ため、か」
「ああ」
「憎しみで、殴るんじゃなくて。……あいつの理屈が、間違ってたって、勝って、証明する」
「そうだ」
青年は、深く、息を吐いた。長い、長い息だった。抱えていた熱の、いちばん危ない部分が、その息と一緒に、外へ出ていくのが、分かった。
「……わかった。正しく、勝つよ。俺の、やり方で」
その夜。
工房の隅で、一ノ瀬は、一人、あの欠けたバッジを、手のひらに載せていた。
俺は、声をかけずに、談話コーナーから、その背中を、見ていた。
青年は、バッジの、欠けた角を、親指で、そっと、なぞっていた。祈るような、その仕草。初めて工房に来た日と、同じ仕草だ。だが、あの日と、背中の意味が、まるで違った。
「……なあ」
バッジに向かって、一ノ瀬が、小さく、話しかけた。
「明日、けじめを、つけるよ。あんたらを、値札で測った、あの理屈に。……ちゃんと、勝って。見ててくれ」
欠けたバッジは、答えない。だが、青年の指が、それを、握りしめる力は、震えていなかった。
窓の外で、遠くのクレーンの赤いランプが、点いて、消えて、また点いた。
決戦前夜の、張り詰めた静けさが、工房に、満ちていた。




