想い
「ごめんね、呼び止めちゃって。あっ、コーヒーでいいかな? ずっと欲しかったお気に入りの豆が昨日やっと手に入ったから、遥くんにも飲んでほしいの」
「……へっ? あ、ありがとうございます……」
それから、ほどなくして。
お母さまのご案内にて、リビングのソファーに腰かける僕。そして、既にご用意なさっていたのか、すぐさま温かそうなコーヒーを注ぎカップを僕の方へと……えっと、いいの? そんな貴重な豆を、僕のために挽いてくださって。……いや、もちろん僕としては大変ありがたいのだけども。
……ただ、それはそれとして……うん、なんだろ。お母さまが、僕にどのようなご用が……うん、やっぱりあれかな? 娘と別れてほしい、っていうあの定番の……いや、定番かどうかは知らないけども。知らない、けども……うん、あり得る。なにせ、相手は僕――大切な娘さんの恋人として、どう考えても納得できる相手じゃないと自分でも思うし。
とはいえ、実際のところお付き合いをしているわけではない。そもそも、僕が更科さんとお付き合いだなんて烏滸がましいにもほどがあるのだけども……だけど、僕らが付き合っているとお母さまが思っていらっしゃるのなら、予想の通り別れてほしいというお話かもしれなくて。……だけど、
「――その、お母さま。僕は――」
「……ありがとう、遥くん」
「…………へっ?」
「……唯菜のこと、ありがとうってずっと遥くんに言いたいなって思ってたから。……あっ、ごめん。なにか言おうとしてたよね?」
「……あっ、いえお気になさらず!」
僕の言葉に被さる形で、柔らかな微笑でそう口になさるお母さま。……えっと、どゆこと? どうして、お母さまが僕に感謝なんて――
「……もう二年くらい前になるんだけど、唯菜はとても辛い思いをしたの。もちろん、辛いことは誰にだってあるし、誰かと比べるつもりなんて全然ないけど……それでも、親だから、っていうのもあるのかな、あんなにも理不尽に心を傷つけられた唯菜を見てたら、私も胸が張り裂ける思いだったの」
「……そう、だったのですね」
「……でも、ごめんね? ここまで言っておいてどうかとも思うけど、具体的に何があったかまでは私の口からは言いたくないの。もちろん、遥くんには知ってほしいと思うんだけど……それは、私じゃなく唯菜の口からであってほしいから」
「…………」
困惑の最中、翳りを帯びた微笑でそう口になさるお母さま。……二年前に、理不尽に心を……いったい、更科さんに何が――
「あっ、そうそう。知ってるかもしれないけど、唯菜ってわりと性に奔放なのよね。私と似て」
――ガタン!
「……あの、お母さま。今、なにか大きな音が……」
「ああ、気にしないで。きっと、ただのポルターガイストだから」
「それはただ事ではないのでは!?」
あっけらかんとお話しなさるお母さまへ、思わず声を上げる僕。いやそれはただ事では……でも、心配ないのかな? 流石にポルターガイストではないだろうし、お母さまのこのご様子を見るにきっと大事ではないのだろう。なので、音の件はさて措くとして……うん、反応に困る。性に奔放って……そもそも、どうして今の流れでこのようなお話を――
「……まあ、さっき話した二年前の辛いことが、唯菜が積極的に男の子と《《そういう関係》》を持つようになったきっかけではあるんだけど……でも、それはあくまできっかけ。唯菜自身も当時からそういうことに強く興味があったと思うし、そこについてはお互いにその意思がある上で然るべき対策さえしてくれれば、私からなにか口を出すつもりはないの。だけど……結局、誰とも長く続いたことはなかったみたいだから、それが心配だったの」
「……お母さま」
大いに困惑する僕に、仄かな微笑でそう口になさるお母さま。《《そういう関係》》とは……なんて、流石に確認するまでもない。そして、更科さんが積極的に男の子とそういう関係を持つようになったのは、先ほどお母さまがお話しなさっていたとても辛いことというのがきっかけとのことで。だけど、お母さまの仰る通りそれはあくまできっかけであり、更科さんご自身の中にも当時からそういう興味があったのだと思う。実際、身体の相性が大事だと言っていた時の更科さんが嘘を言っていたようにも思えないし。……ところで、それはそれとして――
「……ですが、どうして僕に感謝を? その、僕らもまだ、長く続いているとは言えないわけでして……」
そう、躊躇いつつ尋ねてみる。ここまでのお話を聞き洩らすことなく聞いていたものの、どうして僕に感謝をしてくださっているのかはまだ分からなくて。
というのも、更科さんと僕がお付き合いしているとお母さまが思っていたとして、僕が告白した日をお付き合いを始めた日だと仮定しても、まだ二ヵ月も経っていない。お母さまが心配なさっている、更科さんがこれまで誰とも長く続いたことがないという状態を変えられているとは流石に思えなくて。
すると、僕の疑問を分かっていたようで、柔らかに微笑み頷くお母さま。そして、
「……うん、そうだね。確かに、期間としてはまだそれほど経ってはいないけど……でも、分かるの。遥くんとなら、唯菜はずっと一緒にいられる。だって……遥くんの話をする時の唯菜は、それまでに見たことないくらいすっごく幸せそうだから。だから……ありがとう、遥くん」
「……お母さま」
そう、嬉しそうな笑顔で告げる。その笑顔は本当に幸せそうで、どれほどご自身の娘さんを大切に想っているかが改めてひしひしと伝わり、沁み沁みと胸が温ま――
「……それでね、遥くん。こんなこと、親の私が言うことじゃないのは分かってるけど……本当に、唯菜でいいの? 遥くんはモテると思うし、他にも素敵な子はたくさんいると思うんだけど」
すると一転、深く翳りの帯びた微笑でそう問いかけるお母さま。そして、そのお言葉、ご表情からお母さまの真意が分かった気がして。
ここまでのお母さまのお話に関してだけれど――率直な感想としては、親御さんがここまで話すことじゃないと思う。僕が、大切な娘さんの恋人――実際はまだ違うということはさて措いて――恋人であることを考慮しても、親御さんの口からここまで話すというのは相当に稀なケースだと思う。何より、あのご発言――性に奔放であることが悪いことだとは全く思わないけれど、それでもそういうタイプの人に対しマイナスなイメージを持つ人もきっと少なくない。間違っても、ご自身のお子さんの恋人に話すことではないだろう。
それでも、お話しなさったのは――きっと、それほどに怖いから。いつか僕が離れることで、大切な娘さんが修復し得ない傷を負うことが怖いから。尤も、更科さんにとって僕がそれほどの存在だとは思えないけど、少なくともお母さまが本気でそのように――大切な娘さんにとって、僕がそれほどの存在だとお思いであることは疑う余地がなく。
つまりは、僕が更科さんを受け入れられなくなる可能性があるのなら、なるべく早めに――僕がいなくなった際に、更科さんが修復し得ない傷を負う段階になる前に別れてほしいということ。それほどまでに悲痛な思いを抱えるお母さまに、僕は――
「……僕は、唯菜さんが好きなんです。どんな唯菜さんでも、僕は……彼女の全てが大好きで、愛おしくて仕方がないんです。なので……仮に、お母さまご自身の口から直々に別れてほしいと言われても、決してお応えすることはできません」
そう、真っ直ぐに見つめ口にする。僕は、更科さんが好きだ。それはもう、大好きで愛おしくて仕方がないほどに。もちろん、彼女自身が僕のことを嫌になったら仕方がないけど……それでも、僕から離れることは決してないと断言できる。すると、少しの間があった後――
「……うん、ありがとう遥くん。遥くんに出逢えて、唯菜は本当に幸せね」
「……いえ、お母さま。幸せなのは、僕の方です」
そう、微笑み告げるお母さま。心からの安堵、そして心からの幸せがひしひしと伝わるその笑顔に、僕も思わず微笑んだ。




