9話:楽しそうですね
手紙の内容は予想通りだった。
レナートの容態が悪化した。戻ってきてほしい。文面は丁寧だったが、行間に余裕がなかった。
(言ったのに)
言った。半量にしろと。引き継ぎの記録も残した。聞かなかったのだ。聞かなくて、こうなった。
リーナに診療所を任せて、三日で王都に着いた。今度は馬車が出た。追放の時は歩きだったのに。
(現金なものね)
***
宮廷医師団の建物は何も変わっていなかった。三年いた場所。三週間ぶり。
廊下を歩いた。すれ違う医師たちの反応が面白いほど分かれた。目を逸らす者。気まずそうに頷く者。あからさまに舌打ちした者もいた。
角を曲がった時だった。
壁に手をつきながら歩いている男がいた。片足を引きずっている。右足。靴を履いていない。左足だけに靴。右足は布を巻いただけで、それでも地面につけるたびに顔を歪めている。
ブルーノだった。
目が合った。
ブルーノの顔が強張った。こちらを見て、すぐに逸らして、もう一度見た。引きずっている足を庇うように身体の後ろに隠そうとして——壁に肩をぶつけた。
右足に目が行った。布の上からでも分かる。親指の付け根の関節。赤く腫れている。
(ああ——やっぱり)
【右足第一趾——関節内に尿酸結晶の沈着。急性炎症】
あの日、追放の日に見えたものと同じだった。あの時は初期だった。今は発作が出ている。
「……何を見ている」
ブルーノの声が低かった。
「別に」
「笑いに来たか。追放された分際で——」
「笑ってません。レナート様の件で呼ばれたので」
「分かっている。……分かっている!」
声が裏返った。廊下に響いた。
通りがかった侍医がこちらを見て、すぐに目を逸らして足早に去った。
ブルーノの額に汗が浮いている。痛みのせいだけではない。追放した女が呼び戻された。自分は足を引きずっている。その惨めさを噛み締めている顔だった。
「……先生」
言いかけて、やめた。
(忠告しても聞かないでしょう。この人は)
「失礼します」
背を向けた。
「おい」
足を止めた。
「……お前の言った通りだったのか。この足は」
振り返った。ブルーノの顔を見た。怒りでも虚勢でもなかった。
怯えていた。
「食事を変えてください。肉と酒を減らして、水を多めに。痛みがひどい時は冷やして、足を高くして横になること」
「……聞いてない」
「聞かれましたよね。今」
ブルーノが口を開けて、閉じた。
「それ以上悪くなったら、まともに歩けなくなります。もう片方にも出ます」
歩き出した。
背中にブルーノの視線を感じた。追いかけてくる足音はない。追いかけられないのだ。
***
レナートの病室に向かう途中で、ヴェルナーが追いついてきた。顔色が悪い。頬がこけている。眠れていない。
「状況を聞かせてください」
ヴェルナーが早足で並んだ。
「君の引き継ぎ書の通りにした。半量に落とした。最初は持ち直したが、五日で再び悪化した。腹の痛みが収まらない。何を変えても安定しない」
「引き継ぎ書の通り、ですか」
「そうだ」
「半量にしたのは、いつですか」
ヴェルナーが一瞬黙った。
「……黄疸が出てからだ」
「黄疸が出る前に変えてくださいと、追放の日に申し上げました」
「あの場であんな言い方をされて、はいそうですかと——」
「肝臓に負荷がかかった状態で半量に落としても、すぐには戻りません。炎症が残ったまま薬を入れ続けたから、何を変えても効かないんです」
ヴェルナーの足が止まった。
「つまり——私のせいだと」
「原因を聞かれたので答えています」
ヴェルナーの右手が震えていた。追放の日と同じ指。中指と薬指。分かっているのだ。自分のミスだと。あの時と同じように。
「……どうすればいい」
「今の薬を全部止めてください。話はそれからです」
「全部? 止めたら——」
「今の薬が悪化させてるんです。止めて、肝臓が落ち着くのを待ってから組み直します」
ヴェルナーの唇が動いた。何か言おうとして、やめた。
「……任せる」
背を向けて去っていった。
***
病室の扉を開けた。
レナートを見て、足が止まった。
三週間前とは別人だった。頬がこけて、目の周りが暗い。肌から生気が抜けている。腕が細い。
注視した。
【肝臓——炎症。肥大傾向】
【脾臓——腫大。慢性炎症】
【腸管——浮腫】
【体内——微量の異物蓄積。複数臓器に分散】
(肝臓がまだ炎症してる。薬の切り替えが遅すぎた。……それと、この蓄積物。前からあった。少しずつ溜まっている)
気になる。だが今はそれより、目の前の炎症を抑えるのが先だ。
レナートがこちらを見た。
目が合った瞬間、表情が変わった。
「エリカ先生」
声に力が出た。さっきまで天井を見ていた人間の声ではなかった。
「お久しぶりです。だいぶ悪そうですね」
「もう大丈夫です。先生来たから」
(大丈夫じゃないんだけど)
ベッドの横に座った。手首を取った。脈が弱い。
「薬、全部変えます。今飲んでるもの、今日から止めて」
「やった。あれまずかったんです。先生のやつ、もっとましだったのに」
「私のも十分まずいと言われてましたけど」
「全然違いますよ。先生のは飲んだら楽になったから、我慢できた」
腹部に触れた。左側を押した。
「……っ」
「ここ、ずっと痛い?」
「先生がいなくなってからずっと」
言い方。それは腹の話なのか、そうじゃないのか。
(考えすぎ。症状の確認が先)
薬を組み直した。肝臓の炎症を抑えるものと、蓄積物を少しずつ排出するもの。二種類。量を書いた。
「これを朝と夜。量は絶対に変えないで」
「先生が作ってくれるんですか」
「今日の分は作ります。明日からは調合の手順を書き残すから、侍医に任せて」
「先生がいいです」
「わがまま言わないでください」
レナートが少ししょげた顔をした。
薬を調合している間、レナートはずっとこちらを見ていた。視線が分かる。隠していない。真っ直ぐこちらを見ている。
椀を渡した。
「飲んで」
「はい」
レナートが椀を受け取った。指が触れた。
その瞬間——注視したわけではない。勝手に見えた。
【心拍——上昇】
【末梢血流——顔面部に集中】
レナートの顔が赤くなっていた。耳まで。椀を持つ手がわずかに震えている。
(何だ……? 熱でもぶり返した?)
額に手を当てた。熱はない。
「レナート、どこか痛みますか」
「い、いえ。大丈夫です」
大丈夫の声が裏返っている。脈が速い。顔が赤い。なのに熱はない。痛みもない。
(おかしい。薬の反応でもないし、炎症でもない。心拍が上がって顔面に血が集まる——何が原因だ? 感染? アレルギー? どれも合わない)
スキルは異常を拾った。心拍の上昇も、顔面への血流集中も。身体の中で何かが起きている。なのに、前世の知識をどう当てはめても、原因が出てこない。
時々、こういうことがある。見えているのに分からない。この力は万能じゃない。
「……飲んで。冷めるから」
「はい。……先生、手、冷たいですね」
「関係ないでしょう」
レナートが椀に口をつけた。顔をしかめた。
「まずい。でもヴェルナー先生のよりまし」
「基準が低すぎます」
椀を空にしたレナートの顔色を見た。赤みは少し引いている。心拍も落ち着いてきたようだ。
(結局、何だったんだろう。害はなさそうだから、いいけど)
気持ちが悪い。見えているのに診断がつかないのは、医者として一番嫌な状態だ。
「先生」
「何ですか」
「先生、前と変わりましたね」
手が止まった。
「何が」
「分かんないけど、顔が違います。前はもっと……怖いっていうか、尖ってたっていうか」
「それはどうも」
「今の方がいいです。なんか、楽しそう」
(——楽しそう?)
宮廷にいた三年間。記録を書いて、薬を作って、患者を診て。同僚とまともに話したのは片手で足りる。必要な仕事をして、必要なことだけ言って、それだけだった。
ブライテンでの三週間。リーナが毎朝うるさい。患者が来る。礼を言われる。クラウスの脈を測る。フリッツが茶を出してくれる。薬草屋の主人が渋い顔で適正価格を出す。
「先生?」
「……薬の話に戻りますよ」
レナートがこちらを見ている。あの目。ずっと病室にいた人間の目。周りを見ることだけが世界との接点だった目。こちらの変化に気づく目。
何も言い返せなかった。図星だったから。
***
半日かけて指示書を書いた。
薬の調合手順。量。頻度。煎じる温度。保存方法。症状が変わった場合の判断基準。考えられる変化と、その対応。
馬鹿でも間違えないように書いた。間違えた前例があるので、念には念を入れた。
ヴェルナーに渡した。
「この通りにしてください。一字一句。量は変えないで」
「……ああ」
「分からないことがあれば、文を送ってください。返します」
ヴェルナーは指示書を受け取った。目を通している。途中で何度か眉が動いた。
質問はしなかった。
「二週間で安定するはずです。この通りにすれば」
「……分かった」
「この通りにすれば、です」
二度言った。ヴェルナーの目を見て。
ヴェルナーは頷いた。
***
レナートに挨拶に行った。
「帰ります」
「……もう?」
「今の薬で落ち着くから。指示書も残してきました」
レナートはベッドの上で身体を起こした。
「先生、どこにいるんですか。今」
「北の方。ブライテンという街」
「遠いですか」
「馬車で三日」
「……手紙、書いたら届きますか」
「届くと思いますけど、何を書くんですか」
「お礼とか。経過報告とか」
「経過報告は侍医の仕事です」
「じゃあお礼です」
(この子は——)
「好きにしてください」
「書きます」
真っ直ぐだった。目が。声が。腹の痛みで顔色が悪いのに、声に嘘がない。
この子の身体は、いつもそうだった。嘘をつかない。痛い時は痛い顔をする。嫌な時は嫌な顔をする。
「お大事に。ちゃんと食べてください」
「先生も」
「私は元気です」
「知ってます。楽しそうだから」
また言った。返す言葉が見つからなかった。
***
宮廷の門を出た。馬車が待っていた。
乗り込んで、窓から宮廷の建物を見た。三年間いた場所。
戻ってみて分かった。何も変わっていない。廊下も。医局も。人も。
変わったのは自分の方だ。
馬車が動き出した。北へ。ブライテンまで三日。
リーナが薬草の順番を間違えていないか、少し心配だった。
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